あのドラフト選手は今、那須野巧(ドラフト自由枠)
2017年01月30日
1/30、神奈川新聞14面「ベイ戦士を訪ねて」より
東京・池袋からほど近い板橋区内の駅前を歩いて行くと、アーケード商店街の外れにその店はあった。鉄板焼き店「ひだまり」。ベイスターズの左腕だった那須野巧(2004横浜自由枠)が、192センチの大きな体を折り曲げ、野球談議で盛り上がるグループを接客していた。広々とした店内に鉄板回りのスペースが広い特注のテーブルが並ぶ。
「僕がでかいので、窮屈なところは嫌なんです」。ほぼ毎日、店に出ているという。名物は、春季キャンプ地で好物になったという沖縄産のあぐー豚を使った料理だ。お好み焼きを焼いてもらった。
「細かい作業が好きで、手が超でかいのに意外と器用ってよく言われます。現役時代も高島屋で材料買って、1人で飯を作ったりしてたんで。だから結婚できないんですかね」。慣れた手つきだが、調理師免許は持っていないという。
ロッテ移籍後の2011年に戦力外通告を受けた。「野球では架空の自分を演じていたから、ああ疲れたと思って」。トライアウトを受けることもなかった。
「引退まで、普通の人より休みが絶対的に少なかった。週休2日だったとして、どれぐらい少なかったか数えたんですよ。その分を休んでいいんだなって」。海外を旅したり、会えなかった友人を訪ねたり、目覚ましをセットせずに眠ったり。ずっと痛かったヘルニアの手術も受けた。充電期間は3年近くに及んだ。
地元池袋で、飲食や美容、アパレル関係などを経営する友人らと過ごすうち、年配の知人に「おまえはお金があるし、(調理の)経験があるパートナーと2人でやったらどうだ」と開店を勧められた。「たまたま月島のもんじゃ焼き屋で働いていた人と一緒に始めた。カフェでもパスタ屋でもよかったんですけどね」。
現役時代から経営者を取り上げるドキュメンタリー番組を毎週録画し、経営には興味があった。当初は3、4人のスタッフを抱えていたが、食材の仕入れや経理もこなし、今では平日は自身とアルバイト1人で回せる。
「野球でも楽してうまくなりたかったから、いつも効率を考える。どんどんやることを削っているから、無駄がないんじゃないかな。ロスをなくすのが利益への近道ですね」
那須野を語る時、避けて通れない事件がある。新人契約金の最高標準額(1億円プラス出来高5000万円)を大幅超過する5億3000万円を受け取っていた問題だ。
巨人でも同様の事例が表面化するのは数年後。2004年当時の標準額は紳士協定で明確なルール違反ではなかったが、発覚した07年4月11日を境に那須野の人生は大きく変わった。プロ3年目。開幕戦で好投したばかりの左腕は、裏金批判にさらされることになる。
那須野は日大4年時に東都リーグで10連勝した自由獲得枠の目玉で、さらに高額な契約金を提示するチームもあったほどだ。プロの高評価を断る理由はなかった。
「スカウトがこいつがいいと言っても、いくら金を積んでも、活躍しない選手は多々いる。大人が勝手にマネーゲームして、活躍しないからって、その矛先が選手にいくのはおかしい。単勝1.3倍のディープインパクトでも、1着でこないことがあるんだから」。国内13戦12勝の名馬が唯一敗れた05年の有馬記念を引き合いに、那須野はこの話題と向き合ってきた思いを打ち明ける。
だが、世間はそうは見なかった。パッシングは日に日に強まった。チーム内でも最初は見て見ぬふりをされ、ソワソワした空気だった。「試合に出なければ、応援も批判もされない。人間不信だし、もう野球をやりたくなかった」。
そんなとき、ロッカールームで天の声がした。「那須野、金貸してよ。あんだけもらってたんだろ」。チームリーダーの石井琢朗だった。「税金払ってよ」。今度は佐伯貴弘だった。「2人の言葉には救われました。笑いになった方が気が楽だった」。
大矢明彦監督にも監督室に呼ばれた。「俺は気にしてないから。おまえを使うからな」。罵声を浴びながらも、8月には2死満塁で救援して阪神・金本を空振り三振に仕留めるなど、リーグ4位の63試合登板というプロ生活で最高のパフォーマンスを出し続けた。
「あの1年は必死にやっていたから、あんまり記憶にないんですよ。仏さんのような大矢さんに応えたかった」。言いたいことを我慢し無心でプレーした1年。それでも、この活躍も心の底からは誇れないという。「もらったお金を考えたら(07年の)1年だけの仕事じゃ見合わない。そういう選手がいたら、僕も、『あいつ入る時に、すげえもらってなかった?』と思いますから」
もともと自由な少年だった。中学時代は先輩とけんかして野球部を辞め、サッカー部で活躍していた。その頃の仲間が今、店に集ってくれるのが喜びという。「お客さん同士がここで名刺交換して仕事の契約を取れたり、けっこう僕がつなげているんですよ。みんなで喜びを共有できるのがうれしい」
球界を離れて5年余り。野球は商店街のチームでプレーする程度という。野球に未練はないのかと聞いた、考え込んだ那須野は「未練がないって言ったら、ウソなのかも分からない」と言った後、いかにも那須野らしい言葉を続けた。
「もうちょっと練習しなかったら、もうちょい活躍できた気がする。練習しないでプロになった人間だから、プロの練習がしんど過ぎて、練習で疲れちゃったんです」
店の経営は順調で、都心出店の誘いもある。趣味で手掛けてきたTシャツのデザインなども、ビジネスにしたいという。「昔から、よく言われるんです。おまえは真面目にやっても、そう見られない。誤解されやすいから言動に気を付けろって」。那須野らしい道を歩いて行く。
下は2004ドラフトで横浜(現DeNA)が指名した選手です。那須野巧は自由獲得枠で入団。プロでの成績はこちら
2004横浜ドラフト自由枠 那須野巧 日本大・投手・22歳 |
東京・池袋からほど近い板橋区内の駅前を歩いて行くと、アーケード商店街の外れにその店はあった。鉄板焼き店「ひだまり」。ベイスターズの左腕だった那須野巧(2004横浜自由枠)が、192センチの大きな体を折り曲げ、野球談議で盛り上がるグループを接客していた。広々とした店内に鉄板回りのスペースが広い特注のテーブルが並ぶ。
「僕がでかいので、窮屈なところは嫌なんです」。ほぼ毎日、店に出ているという。名物は、春季キャンプ地で好物になったという沖縄産のあぐー豚を使った料理だ。お好み焼きを焼いてもらった。
「細かい作業が好きで、手が超でかいのに意外と器用ってよく言われます。現役時代も高島屋で材料買って、1人で飯を作ったりしてたんで。だから結婚できないんですかね」。慣れた手つきだが、調理師免許は持っていないという。
ロッテ移籍後の2011年に戦力外通告を受けた。「野球では架空の自分を演じていたから、ああ疲れたと思って」。トライアウトを受けることもなかった。
「引退まで、普通の人より休みが絶対的に少なかった。週休2日だったとして、どれぐらい少なかったか数えたんですよ。その分を休んでいいんだなって」。海外を旅したり、会えなかった友人を訪ねたり、目覚ましをセットせずに眠ったり。ずっと痛かったヘルニアの手術も受けた。充電期間は3年近くに及んだ。
地元池袋で、飲食や美容、アパレル関係などを経営する友人らと過ごすうち、年配の知人に「おまえはお金があるし、(調理の)経験があるパートナーと2人でやったらどうだ」と開店を勧められた。「たまたま月島のもんじゃ焼き屋で働いていた人と一緒に始めた。カフェでもパスタ屋でもよかったんですけどね」。
現役時代から経営者を取り上げるドキュメンタリー番組を毎週録画し、経営には興味があった。当初は3、4人のスタッフを抱えていたが、食材の仕入れや経理もこなし、今では平日は自身とアルバイト1人で回せる。
「野球でも楽してうまくなりたかったから、いつも効率を考える。どんどんやることを削っているから、無駄がないんじゃないかな。ロスをなくすのが利益への近道ですね」
那須野を語る時、避けて通れない事件がある。新人契約金の最高標準額(1億円プラス出来高5000万円)を大幅超過する5億3000万円を受け取っていた問題だ。
巨人でも同様の事例が表面化するのは数年後。2004年当時の標準額は紳士協定で明確なルール違反ではなかったが、発覚した07年4月11日を境に那須野の人生は大きく変わった。プロ3年目。開幕戦で好投したばかりの左腕は、裏金批判にさらされることになる。
那須野は日大4年時に東都リーグで10連勝した自由獲得枠の目玉で、さらに高額な契約金を提示するチームもあったほどだ。プロの高評価を断る理由はなかった。
「スカウトがこいつがいいと言っても、いくら金を積んでも、活躍しない選手は多々いる。大人が勝手にマネーゲームして、活躍しないからって、その矛先が選手にいくのはおかしい。単勝1.3倍のディープインパクトでも、1着でこないことがあるんだから」。国内13戦12勝の名馬が唯一敗れた05年の有馬記念を引き合いに、那須野はこの話題と向き合ってきた思いを打ち明ける。
だが、世間はそうは見なかった。パッシングは日に日に強まった。チーム内でも最初は見て見ぬふりをされ、ソワソワした空気だった。「試合に出なければ、応援も批判もされない。人間不信だし、もう野球をやりたくなかった」。
そんなとき、ロッカールームで天の声がした。「那須野、金貸してよ。あんだけもらってたんだろ」。チームリーダーの石井琢朗だった。「税金払ってよ」。今度は佐伯貴弘だった。「2人の言葉には救われました。笑いになった方が気が楽だった」。
大矢明彦監督にも監督室に呼ばれた。「俺は気にしてないから。おまえを使うからな」。罵声を浴びながらも、8月には2死満塁で救援して阪神・金本を空振り三振に仕留めるなど、リーグ4位の63試合登板というプロ生活で最高のパフォーマンスを出し続けた。
「あの1年は必死にやっていたから、あんまり記憶にないんですよ。仏さんのような大矢さんに応えたかった」。言いたいことを我慢し無心でプレーした1年。それでも、この活躍も心の底からは誇れないという。「もらったお金を考えたら(07年の)1年だけの仕事じゃ見合わない。そういう選手がいたら、僕も、『あいつ入る時に、すげえもらってなかった?』と思いますから」
もともと自由な少年だった。中学時代は先輩とけんかして野球部を辞め、サッカー部で活躍していた。その頃の仲間が今、店に集ってくれるのが喜びという。「お客さん同士がここで名刺交換して仕事の契約を取れたり、けっこう僕がつなげているんですよ。みんなで喜びを共有できるのがうれしい」
球界を離れて5年余り。野球は商店街のチームでプレーする程度という。野球に未練はないのかと聞いた、考え込んだ那須野は「未練がないって言ったら、ウソなのかも分からない」と言った後、いかにも那須野らしい言葉を続けた。
「もうちょっと練習しなかったら、もうちょい活躍できた気がする。練習しないでプロになった人間だから、プロの練習がしんど過ぎて、練習で疲れちゃったんです」
店の経営は順調で、都心出店の誘いもある。趣味で手掛けてきたTシャツのデザインなども、ビジネスにしたいという。「昔から、よく言われるんです。おまえは真面目にやっても、そう見られない。誤解されやすいから言動に気を付けろって」。那須野らしい道を歩いて行く。
下は2004ドラフトで横浜(現DeNA)が指名した選手です。那須野巧は自由獲得枠で入団。プロでの成績はこちら
横浜の2004ドラフト指名選手 | |||
自由枠 | 那須野 巧 | 日本大 | 投手 |
自由枠 | 染田 賢作 | 同志社大 | 投手 |
1巡目 | (指名権なし) | ||
2巡目 | (指名権なし) | ||
3巡目 | (指名権なし) | ||
4巡目 | 藤田 一也 | 近畿大 | 内野手 |
5巡目 | 岸本 秀樹 | 近畿大 | 投手 |
6巡目 | 石川 雄洋 | 横浜高 | 内野手 |
7巡目 | 橋本 太郎 | 大体大浪商高 | 投手 |
8巡目 | 桑原 義行 | 日本大 | 外野手 |
9巡目 | 松家 卓弘 | 東京大 | 投手 |
10巡目 | 斉藤 俊雄 | 三菱自動車岡崎 | 捕手 |
★プロ入り後の成績★ |
draftkaigi at 09:23│
│あのドラフト選手は今・・・