筒香嘉智、PL学園から熱心に勧誘されていた
2017年03月27日
3/27、日刊ゲンダイ39面「小倉清一郎の鬼の秘伝書」より
WBC準決勝のために日本代表が渡米した後、教え子の筒香(2009横浜1位)を激励しようと携帯に電話をかけた。出なかったが、「集団で動いているので電話に出られなくてすみません。帰国したら連絡します、とのことです」と筒香が仲良くしている横浜高校時代のマネジャーから連絡がきた。
私はメールの類いを一切やらない。それでマネジャーに伝えたのだろう。律義な男である。準決勝で米国に敗退した試合は3打数無安打。1点を追う八回2死一、二塁で右飛に倒れたのは残念だったが、1次ラウンドMVPになるなど、3本塁打、8打点と日本の4番をよく務めあげた。
律義な性格だが頑固な一面もある。高校時代はバットのヘッドを投手側へ倒してから振るため、詰まることが多かった。「バットを寝かせた方がスムーズに出る。イチローのように打ってみろ」と何度かアドバイスしたが、頑としてバットを立てる構えをやめなかった。
一度だけ怒ったことがある。高3の5月、宮崎での招待試合で10打席以上、どん詰まりの凡打ということがあった。私はあえてみんなの前で怒った。「人の倍打たせてるのに、直せないならやめちまえ!」。そこからタイミングの取り方をシンプルにした。
直後にセンバツ準優勝校の花巻東と練習試合を行った。相手はドラフト1位候補の菊池雄星(現西武)。筒香は直前まで40度近い熱があり、病院で点滴を打っていたが、「せっかくだから打ってみるか?」と打席に立たせたら右翼へ本塁打。その足で寮に帰らせたことがある。それから夏までの約1カ月半の間に本塁打を20本と量産した。
高校まではスイッチヒッターだった。試合は左で打つことが多かったが、練習では偏らないように半々でやらせた。右で打ってもプロでタイトルが取れたと今でも思う。打撃は中学時代からズバぬけていた。
和歌山出身。「堺ビッグボーイズ」関係者から連絡を受け、私は大阪へ向かった。身長は180センチを超え、体重は90キロの体格。左打席のフリー打撃を見たら、両翼95メートルはあるグラウンドで7連発である。ポンポンとスタンドに放り込むパワーに唖然とした。
その中学生はニヤリと笑って「ボク、右の方も自信があるんです」と右打席に入ると、こっちもサク越えを連発。スイッチヒッター筒香との出会いである。
中3の時、地元のPL学園が熱心に勧誘していたという。他にも関西の複数の強豪校から誘われていたようだが、筒香に「松坂さんたちの活躍を見て憧れていた横浜高校に入りたいんです」と言われたことを思い出す。
入学早々、フリー打撃をやらせたら8球連続でスタンドに放り込み、上級生のド肝を抜いた。横浜のグラウンドは、フェンス後方約10メートルのところに高さ12メートルほどのネットを張ってあるが、はるかに越えて後方にあるマンションに飛び込んでしまった。150メートル級の飛距離がなければ届かない。筒香はそこへ打ち込んだ。
住民が危ないので、右翼側のみさらに6メートルかさ上げし、「筒香ネット」を新設したほどである。
本塁打を打ってダイヤモンドを一周する時、ニコリとも笑わないのは昔から。これは父と兄の教えらしく、高校入学時から相手への気遣いができる子だった。1年生から4番を打たせてもテングになることなく、先輩にも後輩にも好かれる性格だった。
左の日本人ホームランバッターといえば、松井秀喜さん(元ヤンキースなど)だが、その領域にはまだ達していない。世界一は宿題となったが、ゴジラに肩を並べるには、2冠王だった昨年同様の成績を今年も残すことである。
上の記事は「松坂大輔の育ての親」として有名な小倉清一郎氏が書いたものです。下は同氏が横浜高の野球部部長に就任した1994年から退任するまで、同校からドラフト指名された選手。(大学・社会人経由も含む)
神奈川県の高校からドラフト指名された選手一覧はこちら
2009横浜ドラフト1位 筒香嘉智 横浜高・内野手・17歳 |
WBC準決勝のために日本代表が渡米した後、教え子の筒香(2009横浜1位)を激励しようと携帯に電話をかけた。出なかったが、「集団で動いているので電話に出られなくてすみません。帰国したら連絡します、とのことです」と筒香が仲良くしている横浜高校時代のマネジャーから連絡がきた。
私はメールの類いを一切やらない。それでマネジャーに伝えたのだろう。律義な男である。準決勝で米国に敗退した試合は3打数無安打。1点を追う八回2死一、二塁で右飛に倒れたのは残念だったが、1次ラウンドMVPになるなど、3本塁打、8打点と日本の4番をよく務めあげた。
律義な性格だが頑固な一面もある。高校時代はバットのヘッドを投手側へ倒してから振るため、詰まることが多かった。「バットを寝かせた方がスムーズに出る。イチローのように打ってみろ」と何度かアドバイスしたが、頑としてバットを立てる構えをやめなかった。
一度だけ怒ったことがある。高3の5月、宮崎での招待試合で10打席以上、どん詰まりの凡打ということがあった。私はあえてみんなの前で怒った。「人の倍打たせてるのに、直せないならやめちまえ!」。そこからタイミングの取り方をシンプルにした。
直後にセンバツ準優勝校の花巻東と練習試合を行った。相手はドラフト1位候補の菊池雄星(現西武)。筒香は直前まで40度近い熱があり、病院で点滴を打っていたが、「せっかくだから打ってみるか?」と打席に立たせたら右翼へ本塁打。その足で寮に帰らせたことがある。それから夏までの約1カ月半の間に本塁打を20本と量産した。
高校まではスイッチヒッターだった。試合は左で打つことが多かったが、練習では偏らないように半々でやらせた。右で打ってもプロでタイトルが取れたと今でも思う。打撃は中学時代からズバぬけていた。
和歌山出身。「堺ビッグボーイズ」関係者から連絡を受け、私は大阪へ向かった。身長は180センチを超え、体重は90キロの体格。左打席のフリー打撃を見たら、両翼95メートルはあるグラウンドで7連発である。ポンポンとスタンドに放り込むパワーに唖然とした。
その中学生はニヤリと笑って「ボク、右の方も自信があるんです」と右打席に入ると、こっちもサク越えを連発。スイッチヒッター筒香との出会いである。
中3の時、地元のPL学園が熱心に勧誘していたという。他にも関西の複数の強豪校から誘われていたようだが、筒香に「松坂さんたちの活躍を見て憧れていた横浜高校に入りたいんです」と言われたことを思い出す。
入学早々、フリー打撃をやらせたら8球連続でスタンドに放り込み、上級生のド肝を抜いた。横浜のグラウンドは、フェンス後方約10メートルのところに高さ12メートルほどのネットを張ってあるが、はるかに越えて後方にあるマンションに飛び込んでしまった。150メートル級の飛距離がなければ届かない。筒香はそこへ打ち込んだ。
住民が危ないので、右翼側のみさらに6メートルかさ上げし、「筒香ネット」を新設したほどである。
本塁打を打ってダイヤモンドを一周する時、ニコリとも笑わないのは昔から。これは父と兄の教えらしく、高校入学時から相手への気遣いができる子だった。1年生から4番を打たせてもテングになることなく、先輩にも後輩にも好かれる性格だった。
左の日本人ホームランバッターといえば、松井秀喜さん(元ヤンキースなど)だが、その領域にはまだ達していない。世界一は宿題となったが、ゴジラに肩を並べるには、2冠王だった昨年同様の成績を今年も残すことである。
上の記事は「松坂大輔の育ての親」として有名な小倉清一郎氏が書いたものです。下は同氏が横浜高の野球部部長に就任した1994年から退任するまで、同校からドラフト指名された選手。(大学・社会人経由も含む)
選手名 | 指名年度とプロ入り後の成績 |
紀田 彰一 | 1994横浜1位 |
斉藤 宜之 | 1994巨人4位 |
多村 仁 | 1994横浜4位 |
横山 道哉 | 1995横浜3位 |
幕田 賢治 | 1996中日3位 |
中野 栄一 | 1996中日4位 |
高橋 光信 | 1997中日6位 |
白坂 勝史 | 1997中日7位 |
松坂 大輔 | 1998西武1位 |
矢野 英司 | 1998横浜2位 |
部坂 俊之 | 1998阪神4位 |
小池 正晃 | 1998横浜6位 |
丹波 幹雄 | 1998ヤクルト8位 |
阿部 真宏 | 2000近鉄4位 |
後藤 武敏 | 2002西武自由枠 |
成瀬 善久 | 2003ロッテ6巡目 |
小山 良男 | 2004中日8巡目 |
涌井 秀章 | 2004西武1巡目 |
石川 雄洋 | 2004横浜6巡目 |
松井 光介 | 2005(大・社)ヤクルト3巡目 |
佐藤 賢治 | 2006(高校)ロッテ2巡目 |
福田 永将 | 2006(高校)中日3巡目 |
円谷 英俊 | 2006(大・社)巨人4巡目 |
高浜 卓也 | 2007(高校)阪神1巡目 |
土屋 健二 | 2008日本ハム4位 |
筒香 嘉智 | 2009横浜1位 |
荒波 翔 | 2010横浜3位 |
近藤 健介 | 2011日本ハム4位 |
乙坂 智 | 2011横浜5位 |
下水流 昂 | 2012広島4位 |
田原 啓吾 | 2012(育成)巨人1位 |
倉本 寿彦 | 2014DeNA3位 |
浅間 大基 | 2014日本ハム3位 |
高浜 祐仁 | 2014日本ハム7位 |
神奈川県の高校からドラフト指名された選手一覧はこちら
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