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あのドラフト選手は今・・・

あのドラフト選手は今、橋本太郎(ドラフト7巡目)

2023年02月15日

日刊ゲンダイ25面「プロ野球選手のセカンドキャリア」より 

2004横浜ドラフト7巡目 橋本太郎
大体大浪商高・投手

「プロ野球選手になる夢をかなえた成功体験が、セカンドキャリアに生きています」。

橋本太郎氏(2004横浜7巡目)は自身がプロデュースする神戸牛・但馬牛専門焼き肉店「BEEFMAN(ビーフマン)」を皮切りに、トレーニングジムや美容サロンなど、多角的に経営。現在は「BEEFMAN」の米国進出に向けて、準備を進めている。

大体大浪商高(大阪)から2004年ドラフト7巡目で横浜(現DeNA)に入団。一軍登板は06年の1度のみで、08年に引退した。

「1年目から肩や肘など体のどこかが常に痛かった。周りが『休んだ方がいいよ』と言うものだから、その通りにしていました。でも、プロ4年目、試合後に見かけた広島の前田智徳さんが体全身にアイシングをしていた。痛みと付き合いながらやっているんだなと衝撃を受けた。周りを見ると、チームメートも皆、投げながら痛くないフォームを模索していた。僕は素直に休んでいたから投球技術が上がらないし、痛みを抱えながらの投げ方も身に付かず……」

戦力外を告げられた08年にトライアウトを受験するも、NPBの球団からは打撃投手としてのオファーしかこなかった。少し心が揺らいだが、「ライバル球団のお手伝いさんにはなれない」と固辞。社会人や独立リーグからの誘いも断った。

「プロになるまで何十万回も野球をやめたいと思っていましたが(笑)、プロという目標があったから耐えられたんです。打撃投手や社会人、独立リーグでは何を目標にすればいいのかビジョンが見えなかった。新たな人生を歩むためには、確固たる目標が必要だと痛感しました」

考え抜いた末、自分の会社をつくることを目標にした。引退して間もなく、イスラエル発のコスメブランド「SABON(サボン)」の日本法人を立ち上げ、飲食チェーンなどを手掛ける黒石和宏社長から「ウチへ来ないか」と声をかけられた。

とんとん拍子で話が進み、同年暮れから黒石社長が経営するコラーゲン鍋の専門店「ハレノヒ西麻布店」でアルバイトを始めた。南麻布に借りたアパートは家賃9万円で「めちゃくちゃ狭かった」。現役時代に買った車は父に譲った。

「ゼロからのスタートです。ビールサーバーの使い方を覚えたり、刺激的で楽しかった。野球ファンもたくさん来てくれました。とてもうれしいことですが……。最初の頃はファンの方の注文に『はい!』と返事して大急ぎで給仕するたび、内心では『ヴッ!』って胸が苦しくなることもありました(笑)。現役時代はサインをする側だったのに、立場が逆転、みたいな。でも、僕には社長になるという目標があった。プロ野球選手になるためにも、まずは基礎のキャッチボールから始めるでしょ。アルバイトは目標への第一歩。野球人生と置き換えて取り組みました」

時には仕事に葛藤を抱えながらも、セカンドキャリアは順調に滑り出した。 (つづく)



下は2004ドラフトで横浜(現DeNA)が指名した選手です。橋本太郎は7巡目指名入団。プロでの成績はこちら

横浜の2004ドラフト指名選手
自由枠 那須野 巧 日本大 投手
自由枠 染田 賢作 同志社大 投手
1巡目 (指名権なし)
2巡目 (指名権なし)
3巡目 (指名権なし)
4巡目 藤田 一也 近畿大 内野手
5巡目 岸本 秀樹 近畿大 投手
6巡目 石川 雄洋 横浜高 内野手
7巡目 橋本 太郎 大体大浪商高 投手
8巡目 桑原 義行 日本大 外野手
9巡目 松家 卓弘 東京大 投手
10巡目 斉藤 俊雄 三菱自動車岡崎 捕手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、小野剛(ドラフト7位)

2023年02月08日

日刊ゲンダイ27面「こうして私は社長になった」より

2000巨人ドラフト7位 小野剛
武蔵大・投手

「本当に周りの方に恵まれて、ここまでやってこれています」。こう話すのは飲食事業や不動産事業、野球教室などを手掛ける小野剛氏(2000巨人7位)だ。昨年10月からは、人材紹介会社「KSキャリア」の顧問も務めている。

武蔵大から2000年ドラフト7位で巨人に入団。一軍登板のないまま02年に戦力外となった翌03年、イタリアのプロ野球に挑戦したのも、恩人の一言があったからだ。

「引退を考えていた僕に、ソフトバンク前監督の工藤公康さん(当時・巨人)が言ってくれたんです。『若くて体が動くのに、野球を諦められるの? オレなら絶対、しがみついてでも続ける』と。プロ2年目のオフに工藤さんの自主トレに加えてもらってから、野球選手としてはもちろん、人生の師として尊敬していました。この言葉で心に火が付いた。その頃、スポーツ紙にイタリアリーグの記事が載っていたのを見て、即座にブローカーと連絡を取りました」

こうしてセリエA・T&Aサンマリノへの入団にこぎつけると、その1週間後にはマウンドに立った。イタリアでは1つのミスで即座にクビになるのがザラ。常に殺伐とした雰囲気が漂っていた。厳しい環境ながら、給料は月10万円ほど。住居はチームメートとの相部屋だった。

大学卒業直後に結婚した妻と生後間もない息子をイタリアに呼び寄せることを決めると、大富豪の跡取り息子だというチームメートがサンマリノ中心街のマンションを無料で貸してくれた。

「英語を話せる妻には通訳代わりにもなってもらいました。そのおかげで同僚とは一層仲良くなり、旅行もした。ガイド本に載っていないような裏路地を探索したりと、地元民視点の旅は忘れられません」

イタリアでは思いがけない出会いがあった。当時、セリエA・パルマに所属していたサッカー界のレジェンド中田英寿氏である。イタリアで身を立てるアスリートの先輩として、同氏がファンに向けて運営していたウェブサイトから連絡を送ったことがきっかけだった。

「中田さんが僕のメッセージに目を通してくれたんです。まず、中田さんのマネジャーさんとつながり、妻子も含めて試合に招待してもらった。観戦後に出待ちしてお礼を伝えたら、『ご飯でもどう?』って。食事の席で、工藤さんの誕生日プレゼント用のワインについてアドバイスをもらおうとすると、『ワインセラーの蔵を買い取ったから、オレがチョイスするよ。住所だけ教えて』とまで言ってくれて。本当に格好良かった。会話の中で忘れられないことがある。中田さんは『サッカー以外にやりたいことが見つかれば、そちらにチャレンジする』と話していた。超一流なのに、そんな生き方もあるんだなって。これは引退後の生活に相当影響しました。僕はどう生きようかと」

中田英寿氏との出会い──。かけがえのないものを得た小野氏は03年限りで帰国し、翌04年に西武の選手としてNPB復帰を果たした。いくつかの球団へ入団テストを志願したが、西武にはツテがなく、連絡すら取っていなかった。なのに、西武の方から入団テストのオファーがあった。

「恐らく、(西武でプレー経験がある)工藤さんが働きかけてくれたのだと思います。僕にはそんなことを一切言ってませんけどね(笑)」(つづく)



下は2000ドラフトで巨人が指名した選手です。小野剛は7位指名入団。プロでの成績はこちら


巨人の2000ドラフト指名選手
1位阿部 慎之助中央大捕手
2位上野 裕平立教大投手
3位三浦 貴東洋大投手
4位根市 寛貴光星学院高投手
5位川本 大輔広陵高投手
6位山下 浩宜九共大八幡西高内野手
7位小野 剛武蔵大投手
8位李 景一敦賀気比高捕手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、山本徹矢(ドラフト5位)

2023年02月01日

日刊ゲンダイ26面「こうして私は社長になった」より

2008ロッテドラフト5位 山本徹矢
神戸国際大付高・投手

2020年に人材派遣会社「W-TK株式会社」を立ち上げた山本徹矢氏(2008ロッテ5位)が起業家を志したのは、現役引退する13年のシーズン中だった。

投手として神戸国際大付高(兵庫)から08年ドラフト5位でロッテに入団。11年に一軍初登板を果たしたが、12年のキャンプで右肘を故障。だましだまし投げているうちに肩も痛め、フォームまで崩れた。13年は一度も試合で投げることができず、リハビリの日々を送った。

「あの頃はとにかく暇で。空いた時間のほとんどは読書に充てていました。ジャンルは自己啓発本とビジネス本。もともと好きだったんですよ。高校時代のリハビリ期間中、監督から『これをノートに丸写ししなさい』と、目標設定について書かれた1冊の本を渡された。半年ほどかけて取り組んだのはいい思い出です。これがきっかけで、本を読むようになりました」

起業家が記した本や、やり手ビジネスマンの思考法について書かれた本を読んでいるうちに、いつしか自分も起業家になりたいと思い始めた。

右肩、右肘に復調の兆しが見えなかった13年9月、あるコーチから引退後について尋ねられた時のことだ。「年収500万円は欲しい」と何げなく答えると、コーチの顔色が変わった。

「即座に、『そんな仕事ないで! 手取り15万円なんてザラやぞ!』と叱られてしまった。『え~!』とビックリしましたね。高卒でプロ入りしたから、いまいち世間の賃金の感覚が分かってなかった(笑)。稼ぐためにも引退後は起業するしかないと一層、強く思いました」

この年に戦力外を告げられた。事業を起こしたいという思いはあっても、明確なビジョンはなかった。一般社会のこともきちんと理解できていなかった。

「いま起業しても無理だろうから、まずは社会勉強をしようと。その後の人生に生きるように、一番しんどいだろう仕事を探しました。知人に相談すると、テレビの番組制作会社をすすめられた。その人のコネで、面接なしですんなり入社。派遣のアシスタントディレクター(AD)になりました」

入社して間もなく、バラエティー番組に配属された。過酷な仕事を求めて入社したとはいえ、想像していたよりもはるかに厳しい地獄のような日々が続いたという。「入社3日目には、上司を殴りたいと思うようになっていました(笑)」 (つづく)



下は2008ドラフトでロッテが指名した選手です。山本徹矢は5位指名入団。プロ入り後の成績はこちら

ロッテの2008ドラフト指名選手
1位木村 雄太東京ガス投手
2位長野 久義ホンダ外野手
3位上野 大樹東洋大投手
4位坪井 俊樹筑波大投手
5位山本 徹矢神戸国際大付高投手
6位香月 良仁熊本Gラークス投手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、桧山泰浩(ドラフト1位)

2023年01月27日

日刊ゲンダイ27面「こうして私は社長になった」より 

1985近鉄ドラフト1位 桧山泰浩
東筑高・投手

1985年、東筑高(福岡県)から近鉄にドラフト1位で指名され入団した桧山泰浩氏は近鉄を退団した翌92年に韓国プロ野球に挑戦も、同年限りで引退。現在は司法書士になっていた。福岡市内に「桧山泰浩司法書士事務所」を構えて26年、遺産相続や不動産登記など、日々、依頼人の要望に向き合っている。

元プロ野球選手として異色のキャリアを歩む桧山氏は、「仕事は楽しい。同じ案件はひとつもありませんから」と、こう話す。

「例えば、遺産相続の手続きひとつ取っても、それぞれに依頼者の要望がある。それに沿って案件を済ませたら、やっぱり達成感がありますね。これを毎回味わえるのです。自己破産の場合なら、依頼者が人生を再スタートできるように、背中を押すこともできる。やりがいや楽しさがないと、26年間も続けられませんよ」

依頼人の意向をくみ取りながら、解決策を提案するため、最初から答えがあるわけではない。法律も目まぐるしく変わる。

「勉強の毎日です。イチローだって、引退するまでは毎日学ぶことがあっただろうし、それと同じ。どの仕事だってきっとそうでしょう」

もともと勉強は得意だった。幼少期からプロ野球選手になることを夢見ていたが、人生には勉強も不可欠だと考えていた。一般受験で入学した東筑高にしても、県内トップの進学校だ。

「ずっと野球中心の生活をしていましたが、“野球バカ”にはなりたくなかった。もしプロになれても、早ければ20歳過ぎで引退するかもしれない。野球だけじゃアカンって思っていたんです。だから、高校3年で春のセンバツに出場して、『プロ注目』なんて言われても、野球だけに没頭しなかった。指名漏れや、予期せぬケガのリスクもある。そうなった際は、早大か慶大への進学を志望していましたからね」

NPBでは一軍出場を果たせず、25歳という若さでユニホームを脱いだ後、司法書士として第二の人生をスタートさせた。この資格を取ったのは、さまざまな選択肢を考えた上での消去法だった。

韓国から帰国後、知人が経営する衣料品関係の会社に就職。主に事務作業員として2年間勤めたが、雇われの立場であるサラリーマンに居心地の悪さが募った。

「野球はチームプレーだけど、投手は自分を中心に考える。ずっと投手をやってきたからか、仕事を自分でやりたいと思うようになったんです。飲食店などの経営も考えたけど、資金がない。それなら何か資格を取ろう、と。どんな資格があるのか調べるために、まずは本屋に行きました。当時は弁護士を含め、難関といわれる資格は大卒者に限られていた。高卒でも取れるのが司法書士だけで、これにするか、と(笑)」

このとき27歳。参考書を手にした日から、人生が再び大きく動き出した(つづく)



下は1985年ドラフト会議で近鉄が指名した選手です。桧山泰浩は1位指名入団。プロでの成績はこちら

近鉄の1985ドラフト指名選手
1位 桧山 泰浩 東筑高 投手
2位 山田 真実 高野山高 投手
3位 福島 明弘 大宮東高 投手
4位 池上 誠一 滝川高 投手
5位 福地 経人 九州産大 投手
6位 吉川 啓一 鎮西高 捕手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、社長になった香月良仁

2023年01月22日

日刊ゲンダイ38面「こうして私は社長になった」より

2008ロッテドラフト6位 香月良仁
熊本ゴールデンラークス・投手・24歳

「アスリートから、どうやって起業すればいいですか、なんて相談されることがありますが……」。

苦笑しながらこう話すのは、投球専門の野球教室やイベント事業を手掛ける「R&Associates」の代表取締役・香月良仁氏(2008ロッテ5位)だ。この問いかけに、いまだ適切な答えを見つけられないのは、氏のマインドが一風変わっているからだ。

プロ入り前の社会人野球時代から起業家になりたいという目標があった。念願のプロ入りを果たしてからも経営本を読み漁り、遠征先では現地の経営者やサラリーマンと交流。チームメートと外食することは少なかったという。

2016年にロッテを退団すると、古巣の鮮ど市場に戻り、19年に退団。起業を決意した。

「多くの人は“コレを事業にする”と決めてから起業すると思います。でも、僕は違った。本を読んで、人とも会って、たくさん知識をインプットしていました。それが実際に使えるものなのか、社会という実戦で試していくために会社をつくった。まずは経営者の目線に立ってみたかったのです」

衣食住に困らなければ何が起きても問題ないと考えている。事業に行き詰まったとしても、日雇いバイトを30日間やれば約30万円になる。これだけで十分に生活できるというわけだ。

それでもリスクヘッジは欠かせない。心掛けているルールは3つある。貯金を使い果たさないこと、大きな借金をしないこと、他人に迷惑を掛けないこと。

「僕のチャレンジに対し、周りから『失敗する』などとネガティブな声を聞くこともある。でも、3つのルールを守っている限り、何が起きても僕にとっては失敗ではありません。勉強代です」

2020年3月に起業。当初は高校野球の指導やパーソナルトレーナーなどをしていたが、直後にコロナ禍に見舞われた。そこにビジネスチャンスがあった。

「日本中で感染症対策グッズが不足しましたが、僕はコロナ関連商品を扱う商社と縁があった。そこから大量に仕入れて、不足している施設や法人に販売する営業代行を始めました。多い月で100万円ほどの収入を得ることができました」

もっとも、当初は手探りの日々だった。「飛び込み営業しても、普通に断られて(笑)。『どうしたら買ってくれますか』なんて聞くと、見積もりや請求書、納品書などが必要だと初めて知ったくらい。慌てて会社の口座もつくりました」

紆余曲折を経て成功を収めたが、「売り手」を続けることの限界も感じていた。=つづく



下は2008ドラフトでロッテが指名した選手です。香月良仁は6位指名され入団。プロ入り後の成績はこちら

ロッテの2008ドラフト指名選手
1位木村 雄太東京ガス投手
2位長野 久義ホンダ外野手
3位上野 大樹東洋大投手
4位坪井 俊樹筑波大投手
5位山本 徹矢神戸国際大付高投手
6位香月 良仁熊本Gラークス投手
プロ入り後の成績


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