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あのドラフト選手は今・・・

球界から消えた元・巨人ドラ1、居酒屋でバイト中

2017年02月17日

週刊ポスト 2月24日号より

1987巨人ドラフト1位 橋本清
PL学園高・投手・18歳

所在不明だった巨人OBの姿が、サラリーマンで賑わう東京・新橋の居酒屋で見られるようになったのは昨年の10月頃。常連客が興奮気味に言う。「ビックリしました! お店のTシャツを着たデカい中年男性が、生ビールですって運んで来た。顔を見たら、あの橋本だったんです」

橋本とは、1987年のドラフト1位でPL学園から巨人に入団し、中継ぎ投手として活躍した橋本清氏(1987巨人1位)である。2001年の現役引退後、野球解説者やタレントとして活躍していた橋本氏だが、昨年7月以降、表舞台で見られなくなった。スポーツ紙の巨人担当記者が語る。

「巨人選手の野球賭博事件や清原(和博)の覚醒剤所持による逮捕などが相次ぐなか、橋本が現役選手と暴力団関係者の“橋渡し役”だったと一部メディアで報じられたためです。選手の黒い交際がクローズアップされていたため、橋本に対して球界は過敏に反応した」

当時、橋本氏は本誌の取材に対し「(疑惑の暴力団関係者とは)2~3回会っただけで芸能関係者だと思っていた。選手を紹介したこともない」と否定していたが、その後、橋本氏はレギュラー出演していた番組から姿を消してしまった。そんな橋本氏の新たな職場が、新橋の居酒屋『肉蔵でーぶ』である。

ここは、西武や巨人で強打の捕手として活躍した後、楽天で監督も務めたデーブ大久保氏(1984西武1位)が、昨年3月にオープンした居酒屋だ。博多の屋台を模した店内で、焼き肉、おでん、ラーメンなど多彩なメニューを楽しめる。デーブ氏に聞いた。

「え、橋本? 今日はいないけど、週に1回ぐらいは働いていますよ。あいつは巨人時代の後輩で、バッテリーも組んでいた。去年あんなことになって仕事がゼロになったっていうから、うちで働いてみないかって誘ったんです。野球の仕事がダメになった今、あいつはバーのような飲食店をやりたいそうです。その勉強も兼ねてるんでしょう。プロ野球とか芸能界っておとぎ話みたいなもんで、ケタ違いのお金をもらえるから、普通の感覚がマヒしてる。ここではお客さんに頭を下げながら、1杯500円の焼酎を売る。アイツなりに苦しみながら、一生懸命働いてくれてますよ」

残念ながら本誌記者は橋本氏に会えなかったが、往年の名バッテリーに会える居酒屋として繁盛しそう。




下は1987ドラフトで巨人が指名した選手です。橋本清は1位指名され入団。プロでの成績はこちら

巨人の1987ドラフト指名選手
1位 橋本 清 PL学園高 投手
2位 後藤 孝次 中京高 内野手
3位 礒貝 公伸 宮崎南高 投手
4位 小沢 浩一 三菱自動車水島 内野手
5位 益田 明典 愛知学院大 投手
6位 杉山 直樹 沼津学園高 捕手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、那須野巧(ドラフト自由枠)

2017年01月30日

1/30、神奈川新聞14面「ベイ戦士を訪ねて」より

2004横浜ドラフト自由枠 那須野巧
日本大・投手・22歳

東京・池袋からほど近い板橋区内の駅前を歩いて行くと、アーケード商店街の外れにその店はあった。鉄板焼き店「ひだまり」。ベイスターズの左腕だった那須野巧(2004横浜自由枠)が、192センチの大きな体を折り曲げ、野球談議で盛り上がるグループを接客していた。広々とした店内に鉄板回りのスペースが広い特注のテーブルが並ぶ。

「僕がでかいので、窮屈なところは嫌なんです」。ほぼ毎日、店に出ているという。名物は、春季キャンプ地で好物になったという沖縄産のあぐー豚を使った料理だ。お好み焼きを焼いてもらった。

「細かい作業が好きで、手が超でかいのに意外と器用ってよく言われます。現役時代も高島屋で材料買って、1人で飯を作ったりしてたんで。だから結婚できないんですかね」。慣れた手つきだが、調理師免許は持っていないという。

ロッテ移籍後の2011年に戦力外通告を受けた。「野球では架空の自分を演じていたから、ああ疲れたと思って」。トライアウトを受けることもなかった。

「引退まで、普通の人より休みが絶対的に少なかった。週休2日だったとして、どれぐらい少なかったか数えたんですよ。その分を休んでいいんだなって」。海外を旅したり、会えなかった友人を訪ねたり、目覚ましをセットせずに眠ったり。ずっと痛かったヘルニアの手術も受けた。充電期間は3年近くに及んだ。

地元池袋で、飲食や美容、アパレル関係などを経営する友人らと過ごすうち、年配の知人に「おまえはお金があるし、(調理の)経験があるパートナーと2人でやったらどうだ」と開店を勧められた。「たまたま月島のもんじゃ焼き屋で働いていた人と一緒に始めた。カフェでもパスタ屋でもよかったんですけどね」。

現役時代から経営者を取り上げるドキュメンタリー番組を毎週録画し、経営には興味があった。当初は3、4人のスタッフを抱えていたが、食材の仕入れや経理もこなし、今では平日は自身とアルバイト1人で回せる。

「野球でも楽してうまくなりたかったから、いつも効率を考える。どんどんやることを削っているから、無駄がないんじゃないかな。ロスをなくすのが利益への近道ですね」

那須野を語る時、避けて通れない事件がある。新人契約金の最高標準額(1億円プラス出来高5000万円)を大幅超過する5億3000万円を受け取っていた問題だ。

巨人でも同様の事例が表面化するのは数年後。2004年当時の標準額は紳士協定で明確なルール違反ではなかったが、発覚した07年4月11日を境に那須野の人生は大きく変わった。プロ3年目。開幕戦で好投したばかりの左腕は、裏金批判にさらされることになる。

那須野は日大4年時に東都リーグで10連勝した自由獲得枠の目玉で、さらに高額な契約金を提示するチームもあったほどだ。プロの高評価を断る理由はなかった。

「スカウトがこいつがいいと言っても、いくら金を積んでも、活躍しない選手は多々いる。大人が勝手にマネーゲームして、活躍しないからって、その矛先が選手にいくのはおかしい。単勝1.3倍のディープインパクトでも、1着でこないことがあるんだから」。国内13戦12勝の名馬が唯一敗れた05年の有馬記念を引き合いに、那須野はこの話題と向き合ってきた思いを打ち明ける。

だが、世間はそうは見なかった。パッシングは日に日に強まった。チーム内でも最初は見て見ぬふりをされ、ソワソワした空気だった。「試合に出なければ、応援も批判もされない。人間不信だし、もう野球をやりたくなかった」。

そんなとき、ロッカールームで天の声がした。「那須野、金貸してよ。あんだけもらってたんだろ」。チームリーダーの石井琢朗だった。「税金払ってよ」。今度は佐伯貴弘だった。「2人の言葉には救われました。笑いになった方が気が楽だった」。

大矢明彦監督にも監督室に呼ばれた。「俺は気にしてないから。おまえを使うからな」。罵声を浴びながらも、8月には2死満塁で救援して阪神・金本を空振り三振に仕留めるなど、リーグ4位の63試合登板というプロ生活で最高のパフォーマンスを出し続けた。

「あの1年は必死にやっていたから、あんまり記憶にないんですよ。仏さんのような大矢さんに応えたかった」。言いたいことを我慢し無心でプレーした1年。それでも、この活躍も心の底からは誇れないという。「もらったお金を考えたら(07年の)1年だけの仕事じゃ見合わない。そういう選手がいたら、僕も、『あいつ入る時に、すげえもらってなかった?』と思いますから」

もともと自由な少年だった。中学時代は先輩とけんかして野球部を辞め、サッカー部で活躍していた。その頃の仲間が今、店に集ってくれるのが喜びという。「お客さん同士がここで名刺交換して仕事の契約を取れたり、けっこう僕がつなげているんですよ。みんなで喜びを共有できるのがうれしい」

球界を離れて5年余り。野球は商店街のチームでプレーする程度という。野球に未練はないのかと聞いた、考え込んだ那須野は「未練がないって言ったら、ウソなのかも分からない」と言った後、いかにも那須野らしい言葉を続けた。

「もうちょっと練習しなかったら、もうちょい活躍できた気がする。練習しないでプロになった人間だから、プロの練習がしんど過ぎて、練習で疲れちゃったんです」

店の経営は順調で、都心出店の誘いもある。趣味で手掛けてきたTシャツのデザインなども、ビジネスにしたいという。「昔から、よく言われるんです。おまえは真面目にやっても、そう見られない。誤解されやすいから言動に気を付けろって」。那須野らしい道を歩いて行く。




下は2004ドラフトで横浜(現DeNA)が指名した選手です。那須野巧は自由獲得枠で入団。プロでの成績はこちら

横浜の2004ドラフト指名選手
自由枠那須野 巧日本大投手
自由枠染田 賢作同志社大投手
1巡目(指名権なし)
2巡目(指名権なし)
3巡目(指名権なし)
4巡目藤田 一也近畿大内野手
5巡目岸本 秀樹近畿大投手
6巡目石川 雄洋横浜高内野手
7巡目橋本 太郎大体大浪商高投手
8巡目桑原 義行日本大外野手
9巡目松家 卓弘東京大投手
10巡目斉藤 俊雄三菱自動車岡崎捕手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、川口知哉(ドラフト1位)

2017年01月29日

東京スポーツwebsiteより  (source)

1997オリックスドラフト1位 川口知哉
平安高・投手・18歳

瀬戸内海東部に浮かぶ淡路島。人口13万人強が暮らすのどかな島で、女子プロ野球チーム「兵庫ディオーネ」のヘッドコーチとして奮闘しているのが川口知哉さん(1997オリックス1位)である。

「プロを辞めてもう12年? 早いですね。当時、マスコミには『ビッグマウス』と書き立てられましたけど、今もそれは・・・変わっていませんよ」。苦笑いを浮かべ懐かしそうに当時を振り返る。

今から20年前の1997年。甲子園で大活躍した川口さんは4球団競合の末、ドラフト1位でオリックス入り。プロ入り前から歯に衣を着せぬ強気発言を連発したことで「ビッグマウス」と注目を集めた。ところが、プロ入り後は左肩痛や制球難に悩まされ低迷。実力を発揮できないまま2004年、戦力外を通告された。

「高校時代は誰にも負けないぐらい練習をしていました。だから強気で負ける気がしなかった。でも、プロはすごい人たちの集まり。自分自身、肩の故障もあって気持ちを追い込むこともできなくなってしまいました。それに、僕の場合、指導していただくコーチが毎年のように代わり、それぞれの指導に従ううちに、フォームがおかしくなってしまって。自分の気持ちを強く持ち続けていればもう少しやれたかもしれないですね」

辛酸をなめ続けたプロ生活。「一度野球から離れたい」と、第2の人生は父親の職業だった外装業の職人を志した。住宅のフェンス作りやカーポート建設など、自らの力で切り開く職人業に魅力を感じ、一時は人生をささげるつもりだった。

「プロでプライドもズタズタにされましたし、長男も生まれた直後で。家族を養っていかないといけない気持ちも強かった」。

そんな川口さんに指導者の依頼が舞い込んだのは09年のこと。職人をしながら地元・京都で中学の野球リーグの手伝いをしている際、新しく誕生する女子プロ野球リーグから声がかかった。

「最初は戸惑いましたよ。いきなりコーチ、しかも女子で、まだリーグも立ち上がっていないころですから。でも、一度大会を見に行ったら予想以上にみんなうまくて。それに、自分自身、いろいろな指導者から教えてもらったおかげで、教える“引き出し”は数多く持っていましたから。すぐに選手の欠点や修正点がわかる。それを生かせるかなと」

自らプロで指導者に悩まされた分、人一倍の愛情を注ぎながら丁寧な指導を心がけた。リーグ開幕当初はバスターやエンドランを知らない選手もいて困惑した。それでも、地道な指導を続けレベルは急上昇。今では世界と対等に戦える女子野球選手を輩出し続ける。

15年からはコーチ業の傍ら、リーグ全体の普及活動や協賛企業を募る球団職員として奔走する川口さん。今後の目標を聞くと、力強い口調でこう語った。

「まずは女子プロ野球をもっと普及させたいので、各都道府県に女子硬式野球部ができるような働きかけをしていきたい。その上で、このリーグを超一流の集まりにしたい。そうじゃないとファンも興味を持たないので。今のプロ野球なら日本ハムの大谷(翔平)のような規格外の選手。そういう選手を一人でも多く育て、女子リーグを活性化したいですね」



下は1997ドラフト会議でオリックスが指名した選手です。川口知哉は1位指名入団。プロでの成績はこちら

オリックスの1997ドラフト指名選手
1位川口 知哉平安高投手
2位前田 和之日通名古屋投手
3位前田 浩継九州共立大投手
4位杉本 潔彦日産自動車九州投手
5位高橋 信夫本田技研捕手
6位永田 能隆北陸銀行投手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、小林昭則(ドラフト2位)

2017年01月25日

1/25、スポーツニッポン8面より

1989ロッテドラフト2位 小林昭則
筑波大・投手・22歳

第89回センバツ高校野球大会の出場32校を決める選考委員会は27日に行われる。昨秋の四国大会で準優勝した帝京五(愛媛)の小林昭則監督(1989ロッテ2位)は、かつて帝京のエースとしてセンバツ準優勝し、監督就任1年足らずでの出場が有力視される。指導法の根底には何があるのか。

完全に日の落ちた午後7時、帝京五ナインはようやく打撃練習を始める。一面しかないグラウンドはサッカー部と共用。彼らが帰宅するまでボールを使えず、その間は裏山の神社にある階段を走って足腰を鍛え抜く。「水はけも悪いし、練習環境は最悪です」。薄暗いライトに照らされた打球を目で追いながら、小林昭則監督の言葉に苦笑いが交じった。

昨年3月の春季大会後に就任。これほどの短期間で甲子園切符を手中にした秘密は、少なくともハード面にはない。「昨夏も狙ってましたけど、正直こんなに早く行けるとは・・・。次から甲子園に出て当たり前のような感じになるし、ハードルを上げすぎました(笑い)」

球歴の輝きは、誰にも負けない。帝京のエースとして1985年のセンバツ準優勝。4年間でリーグ通算25勝をマークした筑波大では、明治神宮大会を制し、日本一にもなった。89年のドラフト2位でロッテに入団。だれもが認める野球界の超エリートなのに、大言壮語を嫌う。

「うちのチームはすごい選手がいるわけじゃないし(四国大会準優勝は)当たり前のことを当たり前にやった結果だと思います」。

チームの改革は、野球より先に生活面から着手した。部員の9割が寮生。就任して最初に寮へ足を運び、思わず絶句した。それぞれ好き勝手な時間に食事を始め、嫌いなものには一切手をつけない。部屋は散乱し、あふれたゴミ箱を気にする者はなかった。

グラウンド以外に大事なことはいっぱいある。それを教えるのも指導」。はき違えた自由な空気は消え、箸の持ち方、食事の姿勢から部員は確実に変わった。

情熱を注ぐ対象は、ユニホームを着た野球部員に限定されない。6年前に母校の帝京コーチを離れた後、1年間教員に専念し、バスケット部を2年間率いた後、なり手のいなかったダンス同好会の顧問を務めた。競技経験はゼロ。普通の人間なら適当に流すところなのに、指揮官は服装や規律が乱れた生徒たちをこう論した。

「学校のルールを守って頑張れば、同好会から部になって助成金も出る。みんなも部としてやりたいんだろ」。言葉の力は計り知れない。生活態度は一変し、文化祭での熱演を経てダンス部は生まれた。

7年間のプロ生活で、勝ち星は挙げていない。「僕はプロで通用しなかった理由も、現役最後の年(96年)に初めて開幕1軍に入った理由も分かっているんです」。鳴り物入りで入団し、普通の努力で済ませたのが前者。戦力外への危機感から、オフも肩を休めず研鑽したのが後者。だから今、特に控え選手に贈る言葉は重い。

「レギュラーより、何倍もやらなければ、勝てるわけがないぞ」・・・。聖地へ導いたのは、栄光と挫折を知る男の人間力だった。



下は1989ドラフトでロッテが指名した選手です。小林昭則は2位指名入団。プロでの成績はこちら

ロッテの1989ドラフト指名選手
1位小宮山 悟早稲田大投手
2位小林 昭則筑波大投手
3位鈴木 俊雄日立製作所捕手
4位南渕 時高東芝内野手
5位鹿野 浩司帝京高内野手
6位林 博康鹿児島実高外野手
プロ入り後の成績


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あのドラフト選手は今、山本徹矢(ドラフト5位)

2017年01月22日

1/21、東京スポーツ5面「異業種で働く元プロ野球選手」より

2008ロッテドラフト5位 山本徹矢
神戸国際大付高・投手・18歳

「もうプロを辞めて3年ですか。この業界にもだいぶ慣れたので、今はすごくいい環境で仕事をやらせてもらってますよ」

プロ野球ファンなら覚えているかもしれない。2013年オフにロッテをクビになり、テレビ制作会社のアシスタントディレクター(AD)に転身した異色の右腕。山本徹矢さん(2008ロッテ5位)だ。あれから3年。今も裏方業は続けている。「担当はバラエティーからサッカーになったんですけどね(苦笑)」

08年のドラフトで神戸国際大付高からロッテ入り。11年に一軍で11試合に登板したものの、以後は右肩の故障に悩まされ13年に引退。業界入りはその直後だった。

「たまたま知り合いだった武田一浩さん(元日本ハム、中日など・現野球解説者)が紹介してくださったのがテレビ制作会社のADの仕事で。当時は野球を辞め、まだ何も決まってなかったので。とにかく一度やってみようと。軽い気持ちで仕事を受けたのですが・・・」

14年2月、ADとして再出発を誓ったが、新たな舞台には厳しい現実が待ち受けていた。日本テレビ系の人気番組「ナカイの窓」の担当に抜てきされたものの、ADはテレビ制作現場では「下っ端」の雑用係。仕事は膨大で、重い機材の運搬や収録後のテロップ作り、出演者の調整、関係者への取材など多岐にわたる。

拘束時間も長く、スタジオ収録日ともなれば、就業は深夜に及ぶこともしばしば。1週間のうち週3~4日はテレビ局に寝泊まりするほど過酷だった。

「ADになるまでパソコンを使ったことがなかったので、その適応も大変で。例えばテロップ作り。普通の人なら1時間で終わる仕事が、僕の場合6時間以上もかかった。当然、上司に怒られるし、いつの間にかあきれられてしまったというか。結局、体力はあるので、やる仕事は重い荷物の運搬や雑用ばかり。最初の6か月は毎日『辞めたい』と思ってました」

環境が変わっても、試練は続く。もともと、スポーツ番組制作が志望だった山本さん。16年4月、念願かなってNHKの番組を扱う制作会社へ移籍したものの、ディレクターを任されたのは「興味も知識もなかった」という「海外サッカー」。再び出直しを余儀なくされた。

それでも、華やかな球界からあえて裏方業に飛び込んだ異端児。あきらめはしなかった。選手やチームを自分なりに小まめに研究。今では畑違いだったサッカー番組にも順応し、連日目の肥えた視聴者に映像を送り続けている。

「仕事は今でも大変です。でも、この仕事を紹介してくれた武田さんの顔もあるし、自分との闘いもある。辞めたら自分に負ける感じがするので」

15年に結婚。夫人との間には1歳の長男がいる。家族を支える使命とともに、厳しい業界でもまれた経験を生かした目標も生まれつつある。

「自分がこの仕事でつらい思いをした分、将来は自分が一人前のADを育てたい。今の業界のやり方ではADはすぐに辞めてしまいますから。テレビ制作現場の環境も改善できればいいですね」。いずれは業界に優秀な人材を派遣する会社を起業したいという山本さん。苦労人の夢は大きい。




下は2008ドラフトでロッテが指名した選手です。山本徹矢は5位指名され入団。プロ入り後の成績はこちら

ロッテの2008ドラフト指名選手
1位木村 雄太東京ガス投手
2位長野 久義ホンダ外野手
3位上野 大樹東洋大投手
4位坪井 俊樹筑波大投手
5位山本 徹矢神戸国際大付高投手
6位香月 良仁熊本Gラークス投手
プロ入り後の成績


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