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ドラフト事件簿、8球団競合も入団拒否した小池秀郎

2017年12月02日

12/2、スポーツ報知5面「あの時」より

1992近鉄ドラフト1位 小池秀郎
松下電器・投手・23歳

「はらわたが煮えくり返るほど悔しい。断腸の思いだ」。90年12月12日。ロッテは、小池秀郎(1992近鉄1位)の獲得断念を表明した。監督の金田正一が無念の思いを絞り出した。隣席には神妙な面持ちの、スカウト部長の醍醐猛夫。本人との再交渉は果たせず、最後は、重光オーナーが断を下した。

先入観を持たれがちだが、小池秀郎という青年は「普通のいいヤツ」だった。それが当時取材した報道陣に共通する小池評である。ショッピングに記者が密着しても、嫌な顔をするわけでもない。下宿の部屋にカメラマンを招き入れて撮影に応じることもあった。取材攻勢にさらされながら、ギスギスしたところが不思議となかった。

小池は、プロ入りを「就職」と表現した。同年代の普通の学生と同じように、希望する企業への意志を貫いた就活の結果が、入団拒否だった。そう置き換えると、合点もいく。

卒業後、松下電器に進んでからはひじの故障に苦しんだ。2年後、92年のドラフトでは近鉄に単独1位指名で入団する。プロ通算51勝。97年に15勝で最多勝も獲得したが、完全に素質が開花したとは言い難い。醍醐には、その意味でも悔いが残る。

初めて小池を見たのは亜大2年。タメの利いた理想的なフォーム、リリースの瞬間のキレ。球が生きていた。「2年後は1位で」と一目ぼれした。「カネやんは、指導者として絶対的に優れたものを持っていた。ウチに入っていたら、10年間は10勝前後でいけたんじゃないか。100勝はできたと思う」

93年秋。ロッテの2軍監督となった醍醐は高知の黒潮リーグにいた。初戦が近鉄戦。走り寄って来る人影があった。小池だった。「醍醐さん、あの時はすみませんでした!」。深々と頭を下げたのである。「大した男だなと思ってね。あれで留飲が下がったねえ・・・」



下は1990ドラフトでロッテが指名した選手です。小池秀郎に8球団が競合し、抽選の末、ロッテが交渉権を獲得するも入団拒否しました。

ロッテの1990ドラフト指名選手
1位小池 秀郎亜細亜大投手
2位定詰 雅彦新日鉄広畑捕手
3位五十嵐 章人日本石油外野手
4位吉井 英昭苫小牧工高投手
5位池田 宇隆柳川高捕手
6位榎 康弘東海大甲府高投手
プロ入り後の成績



下は1992ドラフトで近鉄が指名した選手です。ロッテを拒否し松下電器に進んだ小池秀郎は近鉄に1位指名され入団。プロでの成績はこちら

近鉄の1992ドラフト指名選手
1位小池 秀郎松下電器投手
2位吉田 道東海大相模高投手
3位内匠 政博日本生命外野手
4位衣川 幸夫育英高捕手
5位大島 公一日本生命内野手
6位渕脇 芳行大阪桐蔭高内野手
7位久保 充広近大付高捕手
プロ入り後の成績


draftkaigi at 08:54|この記事のURL

巨人、松坂大輔を3位指名で入団させる裏工作やっていた

2017年10月22日

10/23、日刊ゲンダイ39面「小倉清一郎の鬼の秘伝書」より

1998西武ドラフト位 松坂大輔
横浜高・投手・18歳

ドラフトが26日に迫った。この時期になると、教え子と指名を待ったことを思い出す。一番はやはり、甲子園春夏連覇でフィーバーの真っただ中にいた松坂大輔(1998西武1位)だろう。松坂は横浜ベイスターズ(現DeNA)と相思相愛だった。その年は練習場を借りるなど、恩義もあった横浜に入団して欲しいと思っていた。

事前にプロ側には「横浜以外なら社会人」と伝えていたが、私は個人的に別の考えでいた。例えば、日本ハムの担当・山田正雄スカウト(現スカウト顧問)と私は同い年でもあって仲が良く、彼から「松坂を指名したら来てくれる?」と聞かれたので「もちろん」と答えていた。

巨人は逆指名で大体大の上原浩治と近大の二岡智宏の1位、2位が内定していた。それでも当時の長嶋茂雄監督の「松坂も欲しい」との意向で、巨人の関係者にこう頼まれる。「巨人に3位で行くから、それ以外はプロ入りしませんと公言してください」

私は長嶋監督のファン。が、この申し出にはこう返答するしかない。「長嶋監督に認めてもらって光栄ですが、それは無理です。松坂は1位の投手ですよ。それを3位でなんて言えません。松坂か上原かという話ではないんですか? 松坂が欲しければ1位で指名してください」

結局、1位指名は横浜、日本ハム、抽選で交渉権を得た西武の3球団だった。実は西武だけは10月の国体の後に急きょ参戦した球団で、事前に連絡もなかった。松坂本人はもちろん、渡辺元智監督、部長だった私の誰もが驚いた指名だった。

ロッテに6位で指名された成瀬善久(ヤクルト)も思い出深い。当初は中日が興味を示してくれたが、スピードがないため、指名は難しそうだという。渡辺監督も「いきなりプロは無理じゃないか」との意見。

ただ、連投が多く、肩を酷使する大学の方が無理だと思った私は、当時のロッテの飯塚佳寛スカウトに「7、8勝はするから、下位でいいからだまされたと思って取ってくれ」と頼み込んだ。成瀬は後に最優秀防御率のタイトルなどを取るロッテのエースに成長した。

こんな話もある。高校生のドラフト対象選手は、車の運転免許取得のため、教習所に通うことが多い。しかし、横浜高は最近まで校則で禁止されていたため、松坂はプロ入り後に取得することになる。西武に1位指名された涌井秀章(ロッテ)は、それでも隠れて通った。私も免許を失効していて同時期に教習所に通っていた。

最終学科試験の結果は、涌井が「92点」で私が「94点」。「オレの方が頭が良かったな」と言うと、涌井は頭をかいて苦笑いしていた。



上の記事は「松坂大輔の育ての親」として有名な小倉清一郎氏(元・横浜高野球部部長)が書いたものです。

神奈川県の高校からドラフト指名された選手一覧はこちら

draftkaigi at 07:01|この記事のURL

阿部(巨人)、ドラフトで最も熱心だったのはヤクルトだった

2017年08月16日

8/15、日刊ゲンダイ26面より

2000巨人ドラフト1位 阿部慎之助
中央大・捕手・21歳

長年、激務の捕手を務め、故障も多かったが、よくぞたどり着いた。慎之助(2000巨人1位)が中大に在籍していた頃、私はOB会長だった。リーグ戦で初めて見た時の印象は「強肩」。ガッチリした体格で肩が強い、捕手らしい捕手だと思った。

東京の安田学園高時代は高校通算38本塁打というものの、中央球界で名の知れた捕手ではなかったと思う。中大は当時、東都リーグの2部に低迷。父の東司氏が中大出身ということで入学したようだ。

大学4年の2月、招待選手として日本ハムの春季キャンプに参加していた慎之助を現地で視察した。逆方向のレフトへ本塁打していて、その場にいた東司氏に「打撃もいいね」と言うと、「今、知りました?」とニヤリと笑っていた。

2000安打の達成にもつながるが、技術的には右腕のたたみ方が抜群にうまい。だからインコースを苦にしない。これは教えてもなかなかできない。社会人野球を経験している父の指導か天性か大学時代にはもう武器にしていた。

この頃のプロ野球のドラフトには逆指名制度があった。早くから熱心だったのは実はヤクルト。担当スカウトが通い詰めていた。当時のヤクルトは古田敦也が全盛期で正捕手として君臨していた。慎之助が2、3年の頃だったか、東司氏が「ヤクルトの古田さんの下で2、3年鍛えてもらって・・・と言うので、私は「とんでもない」と反対した。

コーチならまだしも、バリバリの現役捕手が新人を指導するはずがない。それより、正捕手の村田真一(現ヘッドコーチ)がベテランに差し掛かっていた「巨人の方がいいよ」と進言したのを覚えている。


私が2008年から中大の監督を務めた際、オフに「時間があったら大学のグラウンドに顔を出してやってくれよ」と電話をかけたことがある。すでに巨人の中心選手だったが、「分かりました」と二つ返事で来てくれ、選手たちは大喜びだった。

定期的にバットや打撃用手袋、プロテクターやレガースなどの用具類をポンと寄付してくれたのも随分助かった。4年時は主将だった。後輩の面倒見がいい兄貴分のような性格は、今も変わっていない。



上の記事は巨人、東映(現日本ハム)で活躍し、引退後は中央大監督を務めた高橋善正氏が書かれたものです。

下は2000ドラフトで巨人が指名した選手です。阿部慎之助は1位指名入団。プロでの成績はこちら

巨人の2000ドラフト指名選手
1位阿部 慎之助中央大捕手
2位上野 裕平立教大投手
3位三浦 貴東洋大投手
4位根市 寛貴光星学院高投手
5位川本 大輔広陵高投手
6位山下 浩宜九共大八幡西高内野手
7位小野 剛武蔵大投手
8位李 景一敦賀気比高捕手
プロ入り後の成績


draftkaigi at 11:08|この記事のURL

オリックス、ドラフト裏金と東海大グループのドン

2017年08月04日

8/4、日刊ゲンダイ27面「球界への遺言」より
オリックスがかつて、ドラフトで東海大の付属校のスラッガーを獲得しようとしたときの話だ。当初、流敏晴スカウトが担当したものの、らちが明かない。野球部監督によれば、スラッガーは子供のころからある在京球団のファンで、その球団以外、プロ入りする気はないという。オリックスがドラフトで指名しても、社会人チームに行くと言って、にべもなかった。

そうこうするうちに野球部監督は流スカウトを避けるようになった。やむを得ず、ベテランの木庭教スカウトに調べてもらったところ、スラッガーの後ろにはもうひとり、やっかいな人物がついていることが分かった。その人物はスラッガーが入団を希望する球団のOBで、高校生に打撃を教えては、プロ入り時に選手の契約金の一部をピンハネするなどブローカーまがいのことをしているともっぱらだった。

木庭さんの調査によれば、その在京球団が野球部監督とブローカーまがいの人物を抱き込んでいた。監督とブローカーは、すでに在京球団からそれぞれ300万円ずつもらっているとのことだった。

野球部監督とブローカーがガードを固めているスラッガーを、どうやったら振り向かせることができるか。木庭さんが出した結論は当時、東海大野球部監督で、東海大グループのボスである原貢さんを頼ることだった。野球部監督は原貢さんの教え子で、東海大野球部OB。東海大のボスに会って事情を訴えることで、突破口が開ければと考えたのだ。

木庭さんが「実は困っています」と事情を打ち明けると、原貢さんはこう言って、烈火のごとく怒ったという。「あのバカは、まだ、そんなことをやっているのか! あいつの名前はOB会名簿からも外しますから!」。そしてこう続けたそうだ。「あいつにはオレと話をしたと言ってくださって結構です。これからは交渉もお宅のペースでやってください」

木庭さんが原貢さんの言質を得たうえで、野球部監督を訪ねると、これまでとは態度からして違っていた。原貢さんから大目玉を食らったことは想像に難くなかった。手のひらを返したように低姿勢の野球部監督に向かって、木庭さんはハッキリとこう言った。

「もし、ドラフトでウチが指名権を獲得したら、あなたに300万円を渡しますから、それで(スラッガーの希望している)球団との関係を断ってください」。オリックスはその年のドラフトでそのスラッガーを獲得した。(つづく)


上の記事はオリックス・元球団代表の井箟重慶氏が書かれたものです。

東海大の付属校のスラッガーとは萩原淳(東海大甲府)を指すものと思われます。なぜかというと、記事に「ベテランの木庭教スカウトに調査してもらった」とありますが、木庭スカウトがオリックスに在籍したのは1991~1994年。下はその間にオリックスが指名した選手です。東海大系列の選手は一人しかいません。

オリックスの1991ドラフト指名選手

オリックスの1992ドラフト指名選手

オリックスの1993ドラフト指名選手

オリックスの1994ドラフト指名選手


萩原淳は当時、大洋(現DeNA)が囲っている選手と報道されていました。したがって記事内の「ある在京球団」とは大洋(DeNA)になります。よく知らない方は「萩原淳 大洋」で検索してください。

点と線がつながってきました。実は、オリックス・木庭スカウトは前年まで大洋のスカウトをやっていたのです。事情を熟知していた同スカウトが豊富な人脈を使って切り崩しにかかったというところでしょうか。

その萩原淳、ドラフトでは2位入札でオリックスと大洋が競合。抽選の末、オリックスに入団。プロでの成績はこちら


draftkaigi at 07:16|この記事のURL

和田毅、ドラフトで巨人や阪神を拒否した理由

2017年08月03日

8/3、日刊ゲンダイ31面「球界への遺言」より

2002ダイエードラフト自由枠 和田毅
早稲田大・投手・21歳

「ウチの和田が大リーグに行きたがっているので、一度、本人に会って、メジャーの話をしてもらいたいのですが・・・」。2002年、早大野球部の野村徹監督から電話がかかってきた。「和田」とは当時、早大のエースだった和田毅(2002ダイエー自由枠)のことだ。

野村監督とは以前から面識があり、長谷川滋利の移籍にかかわり、国際関係委員会の座長を務めた経験のあるわたしに相談に乗って欲しいということだろう。

和田はその年のドラフトの目玉選手のひとり。貴重な左腕ということもあって、ウチも含めた数球団が逆指名、つまり自由枠での獲得に興味を持っていただけに、目玉選手と直接、話ができるのは渡りに船。野村監督には「喜んでお会いしましょう。自分でお役に立つのであれば、何でもお話ししますよ」と伝え、会う約束を取り付けた。

数日後、和田とは焼き肉店で食事をしながら話をした。本人はメジャーに関心を持っていて、米球界でプレーしたいと考えていた。しかし、卒業してすぐに、というわけではなかった。いきなりメジャーでプレーする自信はないので、まずは日本のプロ球団に入団、ある程度の成績が残せたら、メジャーに挑戦したいと考えていた。

「君なら巨人でも阪神でも人気球団が欲しがるだろうし、自由枠でどこにでも行けるだろう」。こんなふうに水を向けると、本人はかぶりを振ってこう言った。

「そんな巨人や阪神のような人気球団に入って、もし、活躍したら、絶対にFA権を取得するまで大リーグには行けませんよ。球団やファンが離さないでしょう。巨人や阪神に行く気はありません」。
この選手は頭がいいし、しっかりと先を読んでいると感心した。

和田はその後、自由枠でダイエー(現ソフトバンク)に入団した。ダイエーが和田を口説くためにどんな方法を使ったのかは定かじゃない。

自由枠は要するに逆指名制度、ドラフト上位選手が希望球団に入団できるシステムだ。自由競争による契約金の高騰を防ぐために契約金1億円プラス出来高払い5000万円という上限が設けられたものの、あくまで12球団の申し合わせ事項。5億、10億、いや、それ以上の大金が裏で飛び交っていたのは周知の通りだ。

選手にクレジットカードを持たせて銀座で自由に飲み食いをさせたり、大リーグ希望の選手には米国の大物代理人を紹介して海外FA権を取得する以前のメジャー挑戦を認めたりする球団も中にはあった。

もちろん和田はそんなことで“籠絡”されるはずがないし、ダイエーに魅力を感じていたからこそ自由枠で入団したに違いない。入団1年目から5年連続2ケタ勝利をマーク。その後、ケガで振るわない時期もあったものの、11年、チームの日本一に貢献し、結局、海外FA権を行使して海を渡った。(つづく)


上の記事はオリックス・元球団代表の井箟重慶氏が書かれたものです。

下は2002ドラフトでダイエー(現ソフトバンク)が指名した選手です。和田毅のプロ入り後の成績はこちら

ダイエーの2002ドラフト指名選手
自由枠和田 毅早稲田大投手
自由枠新垣 渚九州共立大投手
1巡目(指名権なし)
2巡目(指名権なし)
3巡目(指名権なし)
4巡目溝口 大樹戸畑商高投手
5巡目大野 隆治日本大捕手
6巡目森本 学シダックス内野手
7巡目田中 直樹沖学園高投手
8巡目稲嶺 誉東農大生産学部内野手
プロ入り後の成績


draftkaigi at 07:06|この記事のURL

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