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ドラフトのウラ話

イチローを発掘した名スカウト、自殺の真相(その3)

2017年07月19日

7/14、日刊ゲンダイ26面「球界への遺言」より 

1998オリックストドラフト1位 新垣渚
沖縄水産高・投手・18歳

新垣サイドは案の定、かたくなだった。1998 年11月20日のドラフトで、オリックスは「ダイエー以外なら進学」の新垣渚(沖縄水産高)を1位指名した。翌朝、当時の編成部長で、新垣を担当する三輪田勝利は沖縄へ。新垣の自宅を訪れたものの、雨中、3時間も待ちぼうけを食らった揚げ句、本人への対面はかなわなかった。

翌22日には新垣が九州共立大に進学誓約書を提出した。交渉の突破口は沖縄水産高野球部の栽弘義監督だと思った。新垣に地元・九州のプロ球団に行きたいという思いはあるにせよ、高校生がひとりで、ダイエー以外は進学という絵図を描き、それに沿って動けるはずがない。

ダイエーと新垣の間のパイプ役が必ず必要だ。それが栽監督かどうかは定かでないにせよ、恩師であれば、新垣に対してそれなりの影響力をもっているに違いない。本人への扉が開かない以上、我々はターゲットを栽監督に絞った。

三輪田は沖縄水産高に日参した。グラウンドにも足を運んだが、しかし、栽監督は当初、頑として三輪田に会おうとしなかった。むしろ、会うことを避けた。九州担当の山本公士には会うのに、新垣との交渉役の三輪田には顔も見せなかった。

「ダメです、代表。何度、グラウンドに行っても、栽さんに会えないんです。山本さんは会えるんですが・・・」。それなら山本スカウトを通して話を進めろと指示したものの、らちが明かない。山本も三輪田に対して、いま、行っても栽監督には会ってもらえない、と言っているようだった。

さまざまな沖縄の有力者に連絡を取って、手伝って欲しいと頼み込んでも、状況は変わらなかった。そうこうするうちに、交渉にある人物が入ってきた。具体的な職業はわからないが地元沖縄の人間で、栽監督と親しいという。山本もその人物とは面識があるようだった。

その人物は最初、どうやっても無理、栽監督は会わないと言っていたが、あるとき、状況が変化した。要するに裏金だ。栽監督と親しいというその人物が、裏金を5000万円払えば、自分が栽監督に話をつけると。そういう趣旨のオファーが山本を通してなのか、三輪田のもとにあったというのだ。

三輪田はすぐに連絡してきた。「もう、この話は降りましょう」、「どうしたんや」、「栽監督との間に入っている人が、裏金で5000万円をよこせと言ってきたんです。これはもう、無理です。あしたもう、僕は帰ります。この話はなかったことにしましょう」。三輪田はこう言って、交渉の打ち切りを訴えてきた。(つづく)



上の記事はオリックス・元球団代表の井箟重慶氏が書かれたものです。

下は1998ドラフトでオリックスが指名した選手です。新垣渚は1位指名されるも入団拒否しました。

オリックスの1998ドラフト指名選手
1位新垣 渚沖縄水産高投手
2位川越 英隆日産自動車投手
3位相川 良太東海大内野手
4位木村 昌広日立製作所投手
5位徳元 敏東農大生産学部投手
プロ入り後の成績


draftkaigi at 08:26|この記事のURL

イチローを発掘した名スカウト、自殺の真相(その2)

2017年07月18日

7/13、日刊ゲンダイ30面「球界への遺言」より 

1998オリックストドラフト1位 新垣渚
沖縄水産高・投手・18歳


「さっき、九州担当の山本公士スカウトから電話があったのです。きょうの会議でドラフト1位は新垣渚でいくと結論が出たと聞きましたけど、絶対にやめてほしいと。これまで自分が散々、話をしてきたが、ダイエーに決まっているんだから取れません。だからやめてくれと言われました。ですから、あすはやめましょう」

98年11月19日、ドラフト前夜の深夜11時くらいだった。ホテルのロビーで会った編成部長の三輪田勝利はこう言った。しかし、新垣の1位指名は、数時間前の会議で決まったばかり。当初、反対していた三輪田も最終的に納得した、はずだった。わたしは三輪田の提案を蹴った。

「みんなでよく話し合った末に出した結論なんだから、いこう。取れる取れないはやってみなければわからないんだから」、「う~ん、そこまで代表が言うのであれば・・・。じゃ、僕は1位指名が決まったら、すぐ現地に行きます。ベストを尽くしてやってみます」。彼がこう言って、その晩は別れた。

三輪田を新垣との交渉権を獲得した際の担当者にしたのには理由があった。彼が編成部長だったというのはもちろんあるが、彼自身の経験を生かせるのではないかと考えた。
早稲田大のエースだった三輪田は、67年のドラフトで近鉄の1位指名を拒否して社会人の大昭和製紙に進んだ。当時の希望球団は地元の中日だったといわれている。

オリックスの前身の阪急に1位指名されてプロ入りしたのは2年後、69年のドラフトだった。ドラフトで意中でない球団から指名された際の選手の気持ちはだれよりも理解できると思ったのだ。

オリックスの仕事をするようになって以来、なにかと世話になっていたダイエーの根本陸夫さんには事前に連絡もしなかった。5年前の93年、ダイエーが囲っているとウワサされた平井正史を1位指名したときは事前に連絡して指名の許可をもらった。

ダイエーは当時、逆指名枠の1、2位を渡辺秀一(神奈川大)と小久保裕紀(青山学院大)で使い切っていて、平井を指名するとしても3位以下になった。是が非でも1位で獲得したいウチには説得の余地もあった。

しかし、今回はダイエーもウチも2位の選手を逆指名で決めていて、ダイエーは新垣を1位で指名することになっていた。ウチが新垣を指名するのはドラフト戦略上、伏せておきたかった。ウチの1位指名が事前にダイエーに伝われば、どんな手を使ってでも潰しにくる。

根本さんに対して義理を欠くことにはなるが、だからといって、降りるわけにはいかなかった。怒られるのは怖かったし、あるいは抽選後、「おまえ、そんなことをしても取れないぞ!」と、どやされたことがあったかもしれない。とにかく平井のときとは明らかに事情が違った。

そして11月20日、ドラフト会議当日。ダイエーとオリックスが新垣を1位指名、王貞治監督と仰木彬監督がクジを引き、仰木監督がすっと右手を挙げた・・・。 (つづく)



上の記事はオリックス・元球団代表の井箟重慶氏が書かれたものです。

下は1998ドラフトでオリックスが指名した選手です。新垣渚は1位指名されるも入団拒否しました。

オリックスの1998ドラフト指名選手
1位新垣 渚沖縄水産高投手
2位川越 英隆日産自動車投手
3位相川 良太東海大内野手
4位木村 昌広日立製作所投手
5位徳元 敏東農大生産学部投手
プロ入り後の成績


draftkaigi at 09:01|この記事のURL

イチローを発掘した名スカウト、自殺の真相(その1)

2017年07月13日

7/12、日刊ゲンダイ30面「球界への遺言」より 

1998オリックストドラフト1位 新垣渚
沖縄水産高・投手・18歳

「ブォーーン」。霧笛がこだまする。雨が降りしきり、大阪湾に向かって広がる神戸の街並みは霧がかかっている。「ブォーーン」。海上はよほど霧が深いのか、再び霧笛がなる。眼下の風景はまるで水墨画のようだ。六甲山の麓、高台の一角に、三輪田勝利の墓はある。

三輪田はオリックスの元編成部長。イチローの素質を見いだして獲得した敏腕のスカウトとして知られる彼は、1998年11月27日、沖縄で亡くなった。ドラフトでオリックスが沖縄水産高の新垣渚投手を1位指名。彼との交渉過程で、賃貸マンションから身を投げた。

自殺といわれるが、なぜ死ななければならなかったのか、本当に自殺なのか、もしかしたら裏社会が絡んだ事件なのか。わたしは沖縄で陣頭指揮を執った三輪田と連日、電話で連絡を取り合っていたが、亡くなる寸前の行動がどうにもふに落ちないのだ。

オリックスは当初、福留孝介(日本生命)の獲得を目指した。しかし、彼は中日を逆指名。狙いを高校生投手に変更した。98年の高校生投手は松坂大輔(横浜高)と新垣が人気を二分していた。新垣は地元・九州のダイエーへの入団を熱望していて、ダイエー以外の指名なら九州共立大に進学するといわれていた。

11月19日、ドラフト前日のスカウト会議はもめにもめた。新垣はどうかという話になったものの、編成部長の三輪田は無理だという。「九州担当の山本公士スカウトが絶対に取れませんと言っています」と。「担当がそう言っているのだから新垣はやめましょう」と言ってきた。

だが、わたしと仰木彬監督は、そもそも高校生に逆指名の権利はないのだし、良い投手なのだから新垣にいこうと主張。最終的に三輪田も納得して1位は新垣でいくことになった。

会議が終わり、何人かで食事を取って部屋に戻った。時間は夜の11時くらいだったと思う。部屋の電話が鳴った。三輪田からだった。「ちょっと代表、話があります。下のロビーで会っていただけませんか?」。三輪田はロビーにいた。

「頼みますから、代表、新垣はやめましょう。さっき会議で結論は出ましたけど、もう一回、考え直してください。これ、やばいですよ」、「なんでや?」、「さっき、山本スカウトから電話があったんですよ」

山本は会議には出ていない。

「きょうの会議で新垣でいくと結論が出たと聞きましたけど、絶対にやめて欲しい。これまで自分は散々、交渉してきましたけど、ダイエーに決まっているのだから取れません。だから新垣の指名はやめてほしいと、山本スカウトから散々、言われたのです。ですから、あすはやめましょう」

(つづく)


上の記事はオリックス・元球団代表の井箟重慶氏が書かれたものです。

下は1998ドラフトでオリックスが指名した選手です。新垣渚は1位指名されるも入団拒否しました。

オリックスの1998ドラフト指名選手
1位新垣 渚沖縄水産高投手
2位川越 英隆日産自動車投手
3位相川 良太東海大内野手
4位木村 昌広日立製作所投手
5位徳元 敏東農大生産学部投手
プロ入り後の成績


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オリックス、ドラフト前夜の必死の裏工作

2017年07月11日

7/11、日刊ゲンダイ「球界への遺言」より 

1993オリックストドラフト1位 平井正史
宇和島東高・投手・18歳

「間違いなく高校生ナンバーワン投手ですけど、絶対に取れませんよ」、「取れませんと言うが高校生。指名してしまえばいいだろう」、「いや、ダイエーががんじがらめにしていますから無理ですよ」

1993年のドラフトを直前に控え、球団のスカウト会議は紛糾した。「高校生ナンバーワン」投手とは、その年、春夏の甲子園大会に連続出場した宇和島東(愛媛)の右腕・平井正史のことだ。スカウトたちに言わせると、実力は抜けているものの、ダイエーしか行かないことになっているという。

ダイエーのスカウティングは当時、「球界の寝業師」の異名をとる根本陸夫監督が陣頭指揮を執っていた。わたしは根本さんとパイプがあった。丸善石油が59年の都市対抗野球で優勝したときの選手兼任監督だった岡田英津也さんが、根本さんと親しかった。

その後、丸善石油野球部は休部、復活したときにわたしはマネジャーになった。そんなこともあって岡田さんとはずっと付き合いがあったから、オリックスの仕事をするようになってから、岡田さんが根本さんに「丸善のこういう人間ですから面倒を見てやってくれ」とつないでくれたのだ。

「ダイエーならわたしが根本さんに話をする」。スカウトにはこう言って、平井の1位指名が決まった。平井がダイエーとデキているのなら、根本さんに連絡をしないわけにはいかない。黙って指名すれば、それこそ義理を欠くことになる。

ドラフトはこの年から逆指名制度が導入され、ダイエーは1、2位の枠をすでに逆指名で埋めていた。平井を指名するなら3位以下になる。しかし、オリックスは平井を1位で指名するのだ。そこに付け入る余地があると思い、ドラフト前日の深夜、受話器を取って根本さんをたたき起こした。

「夜中にすみません。うちはピッチャーがいません。あすは1位で指名しますから平井をもらえませんか?」、 「おまえ、何言うとんのや! 指名するならしても構わんが、絶対に取れんよ。ウチに決まっているんだ」、「そこを何とか、頼みますよ。お願いします」

こんなやりとりが続いた後、根本さんは観念した様子でこう言った。「おまえがそこまで言うならしゃあないわ。その代わり、交渉はきちんとやれよ」。根本さんは昔かたぎの人で、身内だと認めた人間は徹底して面倒を見た。わたしも、ずいぶんと世話になった。



上の記事はオリックス・元球団代表の井箟重慶氏が書かれたものです。

下は1993ドラフト会議でオリックスが指名した選手です。平井正史は1位指名され入団。プロでの成績はこちら

オリックスの1993ドラフト指名選手
1位平井 正史宇和島東高投手
2位三輪 隆神戸製鋼捕手
3位斎藤 秀光横浜商大付高内野手
4位福留 宏紀享栄高内野手
プロ入り後の成績


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長嶋一茂、広島からのドラフト指名を断った理由

2017年07月09日

スポーツ報知websiteより (source)

1987ヤクルトドラフト1位 長嶋一茂
立教大・内野手・21歳

8日に放送された日本テレビ系バラエティー番組「嵐にしやがれ」(土曜・後9時)に、元プロ野球選手で野球評論家、タレントの長嶋一茂(1987ヤクルト1位)が、俳優の石原良純とともに「ボンボン記念館」の企画で出演。著名人を父に持つ2世の異色の生い立ちをたどった。

その中で、立教大を経てプロ入りする際の、父である長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督との意外なエピソードを告白した。1987年ドラフトでヤクルトと大洋(現DeNA)の2球団が1位指名で競合、抽選でヤクルトが交渉権を得て、ヤクルトに入団した一茂。しかし、もともとは指名した2球団のほかに、広島からも指名の打診があったのだという。

「オヤジは広島をすすめていたんですよ。育成がしっかりしてるからって。(入団するなら)広島がいいって」と、父から意外なアドバイスがあったことを明かした。

しかし、当時は広島を舞台にしたヤクザ映画「仁義なき戦い」が大人気。「菅原文太さんの『仁義なき戦い』をやってて、広島って街じゅうがこうだ(映画の世界のように抗争がある)と思って・・・。それで断ったんですよ」と一茂。映画「仁義なき戦い」に“ビビって”、広島からの指名の話を断ったのだと語った。

一茂はその後、入団したヤクルトから、父が監督をつとめる巨人に移籍、同じ巨人軍のユニホームを着て戦い、96年に現役を引退した。



下は1987ドラフト会議でヤクルトが指名した選手です。長嶋一茂は1位指名され入団。プロでの成績はこちら

ヤクルトの1987ドラフト指名選手
1位長嶋 一茂立教大内野手
2位忰田 幸也東農大二高投手
3位鈴木 平東海大一高投手
4位池末 和隆杵島商高投手
5位中西 親志NTT東海捕手
6位城 友博習志野高外野手
プロ入り後の成績


draftkaigi at 07:30|この記事のURL


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