ドラフト選手の家庭の事情、佐々木泰(青山学院大)
2024年11月13日
11/13、日刊ゲンダイ22面「ドラフト選手の家庭の事情」より
「大誤算でした。もともと私も妻も会社員生活に疲弊していて、親父が経営していた会社に入れば少しは楽できると思っていたんですけどね(笑)」。
苦境の時代をこう振り返る父・貴さん(62)は、従業員75人を抱える製造会社「ステラ金属株式会社」の代表取締役社長を務める。26歳で純子さん(62)と結婚。貴さんは機械メーカー、純子さんは服飾メーカーに勤務していたが、結婚の翌年に退職し、家業を手伝うことになったものの・・・。
「従業員は20人ほどいましたが、まさに破綻寸前でした。これはとんでもないところに来てしまったなと。元いた会社には戻ろうにも戻れないし、毎日頭を抱えながら新規販路開拓や技術転用による新製品開発などガムシャラになって働きました。妻にもフォークリフトやトラックを運転してもらったりして・・・」
もともと自転車のカゴや子供を乗せる補助席などを製造していた。インテリアや販売店の商品陳列棚などの日用の什器を扱い始めて経営難から脱出。驚異的なV字回復を成し遂げて、現在に至る。
夫妻は、第1子である長男を36歳、次男の佐々木を40歳で授かった。野球経験はなく、夫婦ともにスポーツとは縁がなかったが、長男が地元の少年野球チーム「小野野球少年団」に入団したことで、幼稚園児だった佐々木も兄を追って入団した。貴さんが言う。
「それからというもの、泰は長男の友達に交ざって暇さえあれば野球をしていました。運動神経はそこで培われたのかな。ただ、近場の公園では全力で練習できません。息子たちがあまりにも熱を入れるものだから、泰が小2の時にサプライズを計画した。ウチの会社で使わなくなった工場跡地に練習場を造ろう、と。幅約5メートル×15メートルの敷地に、高さ3メートルのネットを張り、地面には人工芝を敷き詰め、ピッチングマシンを置いて。夏の暑い日に汗だくになりながら3日ほどで完成させました」
貴さんは息子2人の成長を見守るうちにすっかり野球にのめり込み、家族でプロ野球観戦に足しげく通うようになった。当時の小野野球少年団の活動は土日のみ。必ずしも強豪チームとはいえなかったが、負けるたびにもどかしさが募った。
「土日の活動だけでは勝てるようになりません。ピッチングマシンをもう1台導入して、チームの子供たちが毎日練習できるように場所を開放したんです。人数が増えて手狭になったものだから、隣に借りていた駐車場スペースにもネットを張り巡らせて、夜も使えるように照明を設置。ホワイトボードに選手の名札を張って、みんなが練習できるようにローテーションのメニューを考えたことも。素人ながら子供たちにアドバイスをしたこともあります(笑)。土日の活動は応援のみにとどめましたけどね」
練習場の運営はすべて自己負担。この野球熱が会社経営に転機をもたらすことになる。小野野球少年団のコーチから用具を移動させるためのラックの製作を依頼されたことがきっかけだった。
「試しに作ってプレゼントしたら『これは売れるんじゃないか』と。初めてインターネット販売を利用したら手応えがあった。以来、息子の試合観戦で球場に行くたびにアレは作れる、コレならできるだろうと観察してひらめきを持ち帰り、次々に製作していきました。これが面白いことに、野球グッズからスタートしたオンライン事業は今では約2億円規模に膨らみ、会社のひとつの柱になったんです」
盤石の体制の中で佐々木はすくすくと育ち、岐阜ボーイズを経て大本命だった県岐阜商高へ進学。練習場を使う頻度はめっきり減ったが、純子さんは朝4時起きで弁当を作ると、車で約30分の距離にある学校へ送り、貴さんは22時ごろに終わる練習に合わせて学校へ迎えに行くなどサポートを惜しまなかった。
父作の練習場を原点に広島から最高評価を受けてプロ入り。家族の絶え間ない情熱が結実した。
佐々木君のスカウト評はこちら
佐々木君のバッティング動画はこちら
2024広島ドラフト1位 佐々木泰 青山学院大・三塁手・動画 |
「大誤算でした。もともと私も妻も会社員生活に疲弊していて、親父が経営していた会社に入れば少しは楽できると思っていたんですけどね(笑)」。
苦境の時代をこう振り返る父・貴さん(62)は、従業員75人を抱える製造会社「ステラ金属株式会社」の代表取締役社長を務める。26歳で純子さん(62)と結婚。貴さんは機械メーカー、純子さんは服飾メーカーに勤務していたが、結婚の翌年に退職し、家業を手伝うことになったものの・・・。
「従業員は20人ほどいましたが、まさに破綻寸前でした。これはとんでもないところに来てしまったなと。元いた会社には戻ろうにも戻れないし、毎日頭を抱えながら新規販路開拓や技術転用による新製品開発などガムシャラになって働きました。妻にもフォークリフトやトラックを運転してもらったりして・・・」
もともと自転車のカゴや子供を乗せる補助席などを製造していた。インテリアや販売店の商品陳列棚などの日用の什器を扱い始めて経営難から脱出。驚異的なV字回復を成し遂げて、現在に至る。
夫妻は、第1子である長男を36歳、次男の佐々木を40歳で授かった。野球経験はなく、夫婦ともにスポーツとは縁がなかったが、長男が地元の少年野球チーム「小野野球少年団」に入団したことで、幼稚園児だった佐々木も兄を追って入団した。貴さんが言う。
「それからというもの、泰は長男の友達に交ざって暇さえあれば野球をしていました。運動神経はそこで培われたのかな。ただ、近場の公園では全力で練習できません。息子たちがあまりにも熱を入れるものだから、泰が小2の時にサプライズを計画した。ウチの会社で使わなくなった工場跡地に練習場を造ろう、と。幅約5メートル×15メートルの敷地に、高さ3メートルのネットを張り、地面には人工芝を敷き詰め、ピッチングマシンを置いて。夏の暑い日に汗だくになりながら3日ほどで完成させました」
貴さんは息子2人の成長を見守るうちにすっかり野球にのめり込み、家族でプロ野球観戦に足しげく通うようになった。当時の小野野球少年団の活動は土日のみ。必ずしも強豪チームとはいえなかったが、負けるたびにもどかしさが募った。
「土日の活動だけでは勝てるようになりません。ピッチングマシンをもう1台導入して、チームの子供たちが毎日練習できるように場所を開放したんです。人数が増えて手狭になったものだから、隣に借りていた駐車場スペースにもネットを張り巡らせて、夜も使えるように照明を設置。ホワイトボードに選手の名札を張って、みんなが練習できるようにローテーションのメニューを考えたことも。素人ながら子供たちにアドバイスをしたこともあります(笑)。土日の活動は応援のみにとどめましたけどね」
練習場の運営はすべて自己負担。この野球熱が会社経営に転機をもたらすことになる。小野野球少年団のコーチから用具を移動させるためのラックの製作を依頼されたことがきっかけだった。
「試しに作ってプレゼントしたら『これは売れるんじゃないか』と。初めてインターネット販売を利用したら手応えがあった。以来、息子の試合観戦で球場に行くたびにアレは作れる、コレならできるだろうと観察してひらめきを持ち帰り、次々に製作していきました。これが面白いことに、野球グッズからスタートしたオンライン事業は今では約2億円規模に膨らみ、会社のひとつの柱になったんです」
盤石の体制の中で佐々木はすくすくと育ち、岐阜ボーイズを経て大本命だった県岐阜商高へ進学。練習場を使う頻度はめっきり減ったが、純子さんは朝4時起きで弁当を作ると、車で約30分の距離にある学校へ送り、貴さんは22時ごろに終わる練習に合わせて学校へ迎えに行くなどサポートを惜しまなかった。
父作の練習場を原点に広島から最高評価を受けてプロ入り。家族の絶え間ない情熱が結実した。
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│広島