ドラフト選手の家庭の事情、宇野真仁朗(早稲田実)
2024年11月15日
11/15、日刊ゲンダイ22面「ドラフト選手の家庭の事情」より
まさにサラブレッドだ。父・誠一さん(56)は神奈川の名門・桐蔭学園高出身。東京・大田区の中学時代、軟式野球部で都大会ベスト4に入ると、声がかかった。誠一さんがこう言う。
「桐蔭学園からスカウトしていただいて、当時はよく知らなかったんですが、戦国・神奈川で野球がやりたいと思っていたので決めました」
正三塁手として2年秋に神奈川2位で関東大会8強。センバツ当確の4強まであと1勝だった。3年夏は県8強。惜しくも甲子園には届かなかったものの、阪神などで活躍した同級生の関川浩一とともに副主将を務めた。1学年下には元近鉄の大久保秀昭が在籍していた。桐蔭学園が元西武の高木大成や元巨人の高橋由伸を擁して黄金時代を築く少し前のことだ。
卒業後は独協大に進学。首都大学リーグ2部で通算100安打をマークし、社会人チームのリクルートへ。ほどなく指導者に転身し、フェデックス(現FedEx)では4シーズン監督を務めた。
その後はリクルートで社業に専念し、営業一筋。2021年に株式会社エスアールエスを設立し、キャリアコンサルタントとして活動しながら、ジュニアスポーツの運営、ドジャースの大谷翔平やヤンキースのアーロン・ジャッジといった両リーグの本塁打王が使用する「チャンドラー社」のバットの輸入総代理店を務める。
母の博子さん(54)も同じ独協大でダイビング部に所属。筋金入りの体育会夫婦だ。誠一さんが26歳の時に結婚。
宇野は3人兄弟の末っ子。長男の隼太朗さん(25)も桐蔭学園の野球部出身。次男の竜一朗さん(22)は小、中で日本代表に選ばれ、早実高から現在は早大野球部4年で学生コーチ。隼太朗さん同様、米国の大学留学の準備中だという。
博子さんが「2人の兄あっての真仁朗」と言うように、2人の兄の背中を追って小4で野球を始める。中学時代は誠一さんが監督を務める市川リトルシニアでプレー。中学3年時にはシニア日本代表に選出され、難関の早実に推薦入試で入学した。
早実は日本代表クラスの野球の実力と高い学力、高い評定平均値が求められる。寝る間も惜しんで勉強と練習に明け暮れたのかーー。しかし、誠一さんはこう否定した。
「真仁朗は小、中と塾に行ったことはありません。本当に学校の授業のみ。確かに試験前は寝ないで勉強してましたけど(笑)。評定はオール4はあったかな・・・」
自宅は千葉・浦安市。早実の校舎は東京・国分寺市、グラウンドは同・八王子市にある。寮がないため、入学と同時にグラウンドの近くに部屋を借りた。
「竜一朗が早実に行った時もグラウンドの近くに部屋を借りましたが、下に真仁朗がいたため、妻は浦安と東京の家を行ったり来たりしていました。だから、真仁朗の時は完全にサポートしようと、3年夏の引退の時まで2人暮らしをしていました」
入部してからは夜遅くにヘトヘトで帰ってくる宇野を博子さんがそばで支えた。浦安市内に4LDKの一軒家を持つ誠一さんは、しばらく1人暮らしになった。
順風満帆な野球人生を送ってきた宇野だが、主将だった早実3年時に危機に直面した。2年秋は都大会4強、3年春は同4回戦敗退。勝ち切れないことやバッテリーを中心に2年生のレギュラーが多く、12人の3年生部員がひとつになれていないことで「これじゃ勝てない」と悩んだそうだ。
そんな中、宇野は、誠一さんの知人であるメンタルコーチからミーティングを提案された。3年生が徹底して議論することでチームが一丸となったという。
進路は当初、早大進学を考えていたが、「夏の甲子園に出られたこと、U18の日本代表に選ばれたことで気持ちが変わったようです」とプロ入りに変更。同級生が早大へほぼ100%進学する環境にいながら、誠一さんは高卒でのプロ入りを反対しなかったのか。
「『大学からプロへは行けるけど、いきなりプロへ行ったら、早大で野球はできないよ』とか『大学で勉強をしながら社会性を学んだり、大学の野球部の仲間は一生ものだよ』とか言ってみましたが、まったく響きませんでした(笑)。早実からプロ入りした野村大樹さん(現・西武)にも相談したようです。18歳はもう成人ですから、『最後は自分で決めなさい』と言いました」
覚悟を決めたサラブレッドが、層の厚いソフトバンクの内野陣に風穴をあける。
宇野君のスカウト評はこちら
宇野君のバッティング動画はこちら
2024ソフトバンクドラフト4位 宇野真仁朗 早稲田実高・三塁手・動画 |
まさにサラブレッドだ。父・誠一さん(56)は神奈川の名門・桐蔭学園高出身。東京・大田区の中学時代、軟式野球部で都大会ベスト4に入ると、声がかかった。誠一さんがこう言う。
「桐蔭学園からスカウトしていただいて、当時はよく知らなかったんですが、戦国・神奈川で野球がやりたいと思っていたので決めました」
正三塁手として2年秋に神奈川2位で関東大会8強。センバツ当確の4強まであと1勝だった。3年夏は県8強。惜しくも甲子園には届かなかったものの、阪神などで活躍した同級生の関川浩一とともに副主将を務めた。1学年下には元近鉄の大久保秀昭が在籍していた。桐蔭学園が元西武の高木大成や元巨人の高橋由伸を擁して黄金時代を築く少し前のことだ。
卒業後は独協大に進学。首都大学リーグ2部で通算100安打をマークし、社会人チームのリクルートへ。ほどなく指導者に転身し、フェデックス(現FedEx)では4シーズン監督を務めた。
その後はリクルートで社業に専念し、営業一筋。2021年に株式会社エスアールエスを設立し、キャリアコンサルタントとして活動しながら、ジュニアスポーツの運営、ドジャースの大谷翔平やヤンキースのアーロン・ジャッジといった両リーグの本塁打王が使用する「チャンドラー社」のバットの輸入総代理店を務める。
母の博子さん(54)も同じ独協大でダイビング部に所属。筋金入りの体育会夫婦だ。誠一さんが26歳の時に結婚。
宇野は3人兄弟の末っ子。長男の隼太朗さん(25)も桐蔭学園の野球部出身。次男の竜一朗さん(22)は小、中で日本代表に選ばれ、早実高から現在は早大野球部4年で学生コーチ。隼太朗さん同様、米国の大学留学の準備中だという。
博子さんが「2人の兄あっての真仁朗」と言うように、2人の兄の背中を追って小4で野球を始める。中学時代は誠一さんが監督を務める市川リトルシニアでプレー。中学3年時にはシニア日本代表に選出され、難関の早実に推薦入試で入学した。
早実は日本代表クラスの野球の実力と高い学力、高い評定平均値が求められる。寝る間も惜しんで勉強と練習に明け暮れたのかーー。しかし、誠一さんはこう否定した。
「真仁朗は小、中と塾に行ったことはありません。本当に学校の授業のみ。確かに試験前は寝ないで勉強してましたけど(笑)。評定はオール4はあったかな・・・」
自宅は千葉・浦安市。早実の校舎は東京・国分寺市、グラウンドは同・八王子市にある。寮がないため、入学と同時にグラウンドの近くに部屋を借りた。
「竜一朗が早実に行った時もグラウンドの近くに部屋を借りましたが、下に真仁朗がいたため、妻は浦安と東京の家を行ったり来たりしていました。だから、真仁朗の時は完全にサポートしようと、3年夏の引退の時まで2人暮らしをしていました」
入部してからは夜遅くにヘトヘトで帰ってくる宇野を博子さんがそばで支えた。浦安市内に4LDKの一軒家を持つ誠一さんは、しばらく1人暮らしになった。
順風満帆な野球人生を送ってきた宇野だが、主将だった早実3年時に危機に直面した。2年秋は都大会4強、3年春は同4回戦敗退。勝ち切れないことやバッテリーを中心に2年生のレギュラーが多く、12人の3年生部員がひとつになれていないことで「これじゃ勝てない」と悩んだそうだ。
そんな中、宇野は、誠一さんの知人であるメンタルコーチからミーティングを提案された。3年生が徹底して議論することでチームが一丸となったという。
進路は当初、早大進学を考えていたが、「夏の甲子園に出られたこと、U18の日本代表に選ばれたことで気持ちが変わったようです」とプロ入りに変更。同級生が早大へほぼ100%進学する環境にいながら、誠一さんは高卒でのプロ入りを反対しなかったのか。
「『大学からプロへは行けるけど、いきなりプロへ行ったら、早大で野球はできないよ』とか『大学で勉強をしながら社会性を学んだり、大学の野球部の仲間は一生ものだよ』とか言ってみましたが、まったく響きませんでした(笑)。早実からプロ入りした野村大樹さん(現・西武)にも相談したようです。18歳はもう成人ですから、『最後は自分で決めなさい』と言いました」
覚悟を決めたサラブレッドが、層の厚いソフトバンクの内野陣に風穴をあける。
宇野君のスカウト評はこちら
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