ドラフト選手の家庭の事情、竹田祐(三菱重工West)
2024年11月19日
11/19、日刊ゲンダイ21面「ドラフト選手の家庭の事情」より
竹田の父・勉さん(53)は元プロのアメフト選手。現在は自営業で整骨院を営んでいる。
勉さんは近大付高時代にアメフトに出合った。近大のクリムゾンデビルスを経て、卒業後は三菱銀行センチュリアンズ、マイカルベアーズ、アズワンブラックイーグルスとプロチームを渡り歩き、2007年に引退するまで多くのタイトルを獲得した。
28歳の時に竹田の母・あきえさんと結婚。翌年、竹田は3人きょうだいの長男として産声を上げた。それからほどなくして、セカンドキャリアを見据え、夜間課程で柔道整復師・鍼灸師の専門学校に通うことになる。
「6年かけて資格を取りました。05~07年に所属したアズワンの活動は土日のみのため、平日は早朝から夕方までの仕事に就き、夜は学校へ。土日にアメフトを……という生活でした。若かったので、なんとかなりました(笑)」(勉さん)
母のあきえさんは土日には息子たちと勉さんの応援に駆け付けた。竹田家の週末の恒例行事だった。
そんな中、竹田は小学2年の時に友達に誘われ、地元の野球大会に参加し、情熱に火が付いた。アメフト観戦をきっかけに勉さんのチームメートから可愛がられ、楕円球でキャッチボールをしていたため、投球の基礎はできていた。
「祐が野球をやりたいと言い出した時、私は選手として晩年を迎えていました。今まで家族に応援してもらっていたから、『選手の役割をパパと交換する?』と尋ねると、『する!』と。スッパリ引退を決めて、自分は祐の応援に回ることにしたんです」
入団したオール住道(大阪)は、かつて勉さんの父親が監督を務め、勉さんも小学時代の6年間在籍していた。竹田の入団と同時にコーチになり、その2年後からは監督に就任。現在は代表を務める。
プロアスリートの経験から、竹田に特別なレッスンを施したかといえば、まったくそうではない。竹田が小学校高学年になると、「自分のことは自分でやりなさい」と、あくまで自主性に任せた。すると、中学で生駒ボーイズに入団してからは自発的に毎朝6時ごろから1時間ほどランニングするようになったという。
「いい投手になるために何が必要なのか、当時の監督さんなどからのアドバイスをもらい、ひたむきに実行していた。自分で考えて練習することが向いているだろうということで、履正社高に進みました。中学、高校、大学は自主性を重んじるチーム。その中でも、履正社時代の恩師・岡田龍生監督の自主性を重んじる教えがあったからこそ、壁に直面してもどうすべきだったのかを自分で試行錯誤して、夢に向かって努力し続けられたことが今につながったのだと思います。素晴らしい指導者に巡り合えたことに感謝しかありません」(同)
竹田の野球に対する向き合い方は「真面目人間そのもの」だと、勉さんは言う。
「大学、社会人時代に実家に帰ってきたときも、暇さえあればリビングでストレッチ。元旦に初日の出を見て、ランニングしたり。起きている時間の大半を野球に費やしていた。同じスポーツマンとして、『どんだけやんねん』と尊敬してしまうほどでした」
竹田は、生駒ボーイズ、履正社高、明大、三菱重工Westとエリート街道をひた走ってきた一方で、挫折は痛いほど経験している。明大4年時と昨秋にプロ志望届を出しながら指名漏れ。今秋、3度目のドラフトでようやくプロ切符を掴んだ。
「これまで何度も悔しい思いをして、そのたび力に変えてきたんです。明大時代に指名漏れした直後、田中武宏監督に肩を抱かれながら会見場を退出する姿が新聞に載りました。すると、祐はその記事を持ってきて、『実家に貼ってほしい。この悔しさを絶対に忘れないように』と。昨秋のドラフト直後も、食事が喉を通らないほど憔悴していたのですが、その1週間後くらいに実家に帰ってくると、『とにかくもう1年、勝負をかけて頑張る。ドラフト1位指名を目指す。このままでは終われない』と宣言した。決意が実ってくれて、本当にうれしいです」
踏まれても踏まれても立ち上がってきた胆力は、大舞台で生きる。
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2024DeNAドラフト1位 竹田祐 三菱重工West・投手・動画 |
竹田の父・勉さん(53)は元プロのアメフト選手。現在は自営業で整骨院を営んでいる。
勉さんは近大付高時代にアメフトに出合った。近大のクリムゾンデビルスを経て、卒業後は三菱銀行センチュリアンズ、マイカルベアーズ、アズワンブラックイーグルスとプロチームを渡り歩き、2007年に引退するまで多くのタイトルを獲得した。
28歳の時に竹田の母・あきえさんと結婚。翌年、竹田は3人きょうだいの長男として産声を上げた。それからほどなくして、セカンドキャリアを見据え、夜間課程で柔道整復師・鍼灸師の専門学校に通うことになる。
「6年かけて資格を取りました。05~07年に所属したアズワンの活動は土日のみのため、平日は早朝から夕方までの仕事に就き、夜は学校へ。土日にアメフトを……という生活でした。若かったので、なんとかなりました(笑)」(勉さん)
母のあきえさんは土日には息子たちと勉さんの応援に駆け付けた。竹田家の週末の恒例行事だった。
そんな中、竹田は小学2年の時に友達に誘われ、地元の野球大会に参加し、情熱に火が付いた。アメフト観戦をきっかけに勉さんのチームメートから可愛がられ、楕円球でキャッチボールをしていたため、投球の基礎はできていた。
「祐が野球をやりたいと言い出した時、私は選手として晩年を迎えていました。今まで家族に応援してもらっていたから、『選手の役割をパパと交換する?』と尋ねると、『する!』と。スッパリ引退を決めて、自分は祐の応援に回ることにしたんです」
入団したオール住道(大阪)は、かつて勉さんの父親が監督を務め、勉さんも小学時代の6年間在籍していた。竹田の入団と同時にコーチになり、その2年後からは監督に就任。現在は代表を務める。
プロアスリートの経験から、竹田に特別なレッスンを施したかといえば、まったくそうではない。竹田が小学校高学年になると、「自分のことは自分でやりなさい」と、あくまで自主性に任せた。すると、中学で生駒ボーイズに入団してからは自発的に毎朝6時ごろから1時間ほどランニングするようになったという。
「いい投手になるために何が必要なのか、当時の監督さんなどからのアドバイスをもらい、ひたむきに実行していた。自分で考えて練習することが向いているだろうということで、履正社高に進みました。中学、高校、大学は自主性を重んじるチーム。その中でも、履正社時代の恩師・岡田龍生監督の自主性を重んじる教えがあったからこそ、壁に直面してもどうすべきだったのかを自分で試行錯誤して、夢に向かって努力し続けられたことが今につながったのだと思います。素晴らしい指導者に巡り合えたことに感謝しかありません」(同)
竹田の野球に対する向き合い方は「真面目人間そのもの」だと、勉さんは言う。
「大学、社会人時代に実家に帰ってきたときも、暇さえあればリビングでストレッチ。元旦に初日の出を見て、ランニングしたり。起きている時間の大半を野球に費やしていた。同じスポーツマンとして、『どんだけやんねん』と尊敬してしまうほどでした」
竹田は、生駒ボーイズ、履正社高、明大、三菱重工Westとエリート街道をひた走ってきた一方で、挫折は痛いほど経験している。明大4年時と昨秋にプロ志望届を出しながら指名漏れ。今秋、3度目のドラフトでようやくプロ切符を掴んだ。
「これまで何度も悔しい思いをして、そのたび力に変えてきたんです。明大時代に指名漏れした直後、田中武宏監督に肩を抱かれながら会見場を退出する姿が新聞に載りました。すると、祐はその記事を持ってきて、『実家に貼ってほしい。この悔しさを絶対に忘れないように』と。昨秋のドラフト直後も、食事が喉を通らないほど憔悴していたのですが、その1週間後くらいに実家に帰ってくると、『とにかくもう1年、勝負をかけて頑張る。ドラフト1位指名を目指す。このままでは終われない』と宣言した。決意が実ってくれて、本当にうれしいです」
踏まれても踏まれても立ち上がってきた胆力は、大舞台で生きる。
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